【対談】地域観光プロデューサーの先達に聞く(1)

地域観光プロデューサーとしていわば先達として活躍されている方々より「外から地域に入られて、外から来た人材だから見えてきたもの」や、さまざまな体験談を交え、これから参画されようとする方々や地域に対しての参考となるよう座談会を企画しました。

中根 裕

中根 裕 主席研究員

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目次

近年、地域の観光において外部からプロデューサー的な役割を担う人材が求められている中で、国土交通省でも「観光プロデューサーの派遣支援制度」が創出され、今後は地域に入って活動したいと願う人々の増加が期待される。そこで、地域観光プロデューサーとしていわば先達として活躍されている方々より「外から地域に入られて、外から来た人材だから見えてきたもの」や、さまざまな体験談を交え、これから参画されようとする方々や地域に対しての参考となるよう今回の座談会を企画。中根裕JTM取締役・主席研究員が司会進行を務め、地域観光プロデューサーの先達が実際に地域に入っての実感や苦労談、やりがい等、通常は書籍や文献等で得られないような話も収録されていますので、必見です!※対談は4回に分けて掲載します。

≪懇談会メンバー紹介≫
浅井信 : 大手旅行会社 近畿日本ツーリストに勤務し、主に海外旅行分野を歴任。平成13年 千葉県館山市が公募した観光プロデューサーに在職中応募し就任。平成16年から館山市観光アドバイザーとなり、同時にNPO法人千葉自然学校の理事に就任し現在に至る。村上政司 : 昭和42年(株)日本交通公社(現ジェイティービー)に入社後、神奈川県一帯の支店で国内旅行分野を中心に勤務。平成12年より静岡県下田市観光協会営業部長として出向。平成14年より同市役所観光アドバイザー。平成18年より(財)箱根町観光協会専務理事就任。渡邊法子 : 昭和58年に大学卒業後銀行に勤務し、61年に退職。平成15年にNPO法人全国まちづくりサポートセンター事務局長就任(16年より理事兼務)、京都府京丹後市などの地域活性化事業に取り組む。平成19年より静岡県稲取温泉観光協会の事務局長の公募に応募し就任、現在に至る。*司会進行 
中根裕 : 昭和51年に(財)日本交通公社入社後、観光を通じた地域調査、コンサルティング業務に取り組む。平成13年より設立された(株)ツーリズム・マーケティング研究所に出向の後、平成18年に移籍。

【JTM企画】地域観光プロデューサーの先達に聞く(1)
自己紹介と近況報告・地域に入られたきっかけ・動機づけは?

中根 皆様方は地域から請われて招聘され、地域観光プロデューサーとしてご活躍されていらっしゃいますが、最初のパートでは、自己紹介を兼ねて、地域に入られたきっかけや近況などをご紹介いただければと思います。

浅井 私は、お二人と違って現在は現役ではございません。平成13年から3年間、館山市の観光プロデューサーの仕事をし、以降は、私の個人的な思いからボランティアとしてこの分野に関わっており、足掛け6年間、この分野に携わっています。いま感じていることは、前半の3年間と後半の3年間とを比べてみると、後半の3年間は違った面白みを見出し、別のやりがいを感じています。
地域観光プロデューサーの先達に聞く
観光プロデューサーの仕事を離れて何故ボランティアとして活動しているかについてお話したいと思います。地域の方々に呼びかけや働きかけする際には自分の思いを伝える必要があり、地域の方々に対しての約束事を語ってきたのではないかと思ったからです。観光プロデューサーの3年間は短い期間であり、やり遂げられなかったことの方が圧倒的に多い。思いのうちの1~2割位しか実現されていなかった。そうすると、当初の思い、特に約束したことがどうなるかを見届けたいということで、未だにこの分野に関わっています。また、千葉県では2007年DCキャンペーンを実施しましたので、このキャンペーンでの成果をみるまでは積極的に関わろうと思っていました。

先日館山の新しい観光協会長とお会いする機会があり、「浅井さんが取組んでくれたことが地域の新しい観光の始まりだった」と言っていただきました。着任していた時は、大きな成果は出ていなかったけれども、6年間経ってようやく理解されてきたのかな、と感じた次第です

村上 下田市の観光協会を経て、現在は箱根町の観光協会で仕事をしています。現在の箱根町観光協会の専務理事の仕事は、どちらかと言うと組織運営・施設運営なんですね。2006年4月に箱根町の観光公社と観光協会とが統合されたことがきっかけで呼ばれました。観光プロデューサーとしての活動では、現職の箱根町観光協会ではなく、むしろ下田市での活動が今回の対談の趣旨に沿うのではないかと思っていますので、下田での活動を中心にお話させていただきます。
地域観光プロデューサーの先達に聞く
2000年、新世紀創造祭の時に下田市にJTBから出向で行きました。当時は、今と比べるとまだ地域は活性化していました。下田市からJTBに申し入れがあり、派遣されたような形で、当時としては珍しいこともあり、新聞などに数多く取り上げられました。行政からの要請でしたが、肩書きとしては観光協会の仕事をしていました。
しかし実際に着任すると仕事がまったくない。そこで自らの担当する仕事を見つけ出そうと、旅行会社時代に手がけていた「教育旅行」を地域の中で展開することを始めました。お陰さまで、現在では下田の教育旅行が一つの形として定着してきています。旅行業から来た者が地域活性化にどのように貢献できるかを考えた際に、地域に集客すること、その手段として教育旅行を中心とした事業を仕掛けたのです。当初3年の予定でしたが、結果的には6年間、下田市で活動することになりました。観光プロデューサーとしては、地域にどっぷりとつかっていたということ。地域の様々な方々と毎日のように飲んでいたことを思い出します。浅井さんも同じ境遇だったと思いますが、当時は観光プロデューサーということがまだ認知されていない時期で、早めに地域に出た人間であろうと思っています。

中根 渡邊さんは2007年の4月に着任されたばかりですので、それ以前の活動の話や、今回応募された思い等についてのお話をいただければと思います。

地域観光プロデューサーの先達に聞く
渡邊 私はNPO全国まちづくりサポートセンターというところで活動していました。この団体は、平成15年に設立された組織で市民側の立場で行政との協働を進めてきました。実際にまちづくりに取組んでいると、どうしても行政主導で進められることが多く、水平展開や横の組織との連携すら図れないといった限界を感じていました。地域住民の立場からみると地域内の組織の壁は関係なく、縦割主義や予算主義で不合理な状況が展開されているなと感じていました。行政内部に優秀な人材や良好なアイディアがあっても、日の目を見ないものとなってしまっているのではないかと疑問を感じていました。
地域性の強い地域に行くと、しがらみや地域住民の顔が見えて自由な意見が言いあえない。地域の中の方々だけでは調整しきれない問題が多々あることを感じました。今回、稲取温泉観光協会が稲取温泉の中の仲介役・調整役を外から求められていたことを受けて就任しました。地域の方々の意見の聞き役・調整役である一方で、やはり地域活性化の結果を出すことにも期待されており、一人で何役もこなさないといけない状況にあります。
今回の観光プロデューサーに応募したきっかけは、全国まちづくりサポートセンターでまちづくりの仕事をしていて、仕事としてやりがいがあり素晴らしい仕事だと感じていたこと、地域に住んで一緒に活性化に取組めること、稲取はこじんまりとした地域であること等があったように思っています。

中根 観光やまちづくりに関わっていると、東京から出かけていってコンサルティングする立場の限界は、私も常に感じています。その限界を超えて、地域の中に身を置くことで地域活性化に貢献しようという思いがあったのでしょうね。当事者として地域づくりに参画する、といった感じでしょうか。

渡邊 言葉でいくら語ったとしても、地域外から言っていると、同じ目線でといっても限界がある。どうせ貴方は他所者で帰る人、と思われている。感情面も含めて一緒に苦労するのは、やはり地域に住まうことであると思います。

中根 村上さんは、会社から出向という命を受けて地域に入られた。一方浅井さんは自らの職を辞して地域に入られましたよね。館山に行こうとされた動機づけは何だったのでしょうか。

浅井 個人的に館山のゴルフクラブ会員であったので、自宅の船橋と館山の間の往来は以前からありました。外から眺めていた館山の風景は素晴らしかった。館山湾はハワイのワイキキ海岸にも似ていると感じており、こんな魅力的なところにはもっと人が来ないはずがないという自信めいたものがあった。

中根 プライベートで外から地域をご覧になっていて、ご自分の活性化プランをお持ちになり、それを自らが実践したいという気持ちがあったということなのでしょうか。

浅井 そうですね。もう一つは年齢的なものもありましたね。当時57歳でした。あと3年で定年を迎えるという時期にさしかかっていましたので、地域に踏み込んじゃえ、という気持ちになりました。これが50歳の前半だったら考えていたかもしれませんね。

中根 時代的なものもあったでしょうね。旅行業界として。

浅井 丁度、旅行業界が厳しい時代であったことは確かですね。

中根 村上さんは、下田に行かれるまでは商品をつくる側にいらして、今度は受け容れる側にという形になったわけですが、率直なところの感想はいかがでしたか。

村上 ご存知のように下田までは関東圏域なのです。ということで以前から地域の旅行業界の方々とのお付き合いはありました。後日談ですが、旅館さんからの強い理解を得られていたようです。
着任してみると、観光協会の名刺をもってはいますが、席は役所の観光課の中にある。着任当初は、地域の方々と会うことに時間をとりました。その時に民宿の方と話をしていて「昔(昭和40年代)の民宿はすごくよかった」「民宿はどうすれば生き残れるか」という声をお聞きし、ふと「教育旅行」のアイディアが沸いたんです。
派遣元の会社としては、自ら努力して仕事・役割を見出せという立場であったことが、結果としてよかったのではないかと思っています。

中根 派遣元の会社も、あるいは地域の下田市の側も観光プロデュースという役割の具体的イメージは当初持っていなかったんでしょうね。下田市での6年間の活動は、自らがプロデューサーとしての役割の必要性を感じられて活動されたということですね。

村上 派遣元の会社も、あるいは地域の下田市の側も観光プロデュースという役割の具体的イメージは当初持っていなかったんでしょうね。下田市での6年間の活動は、自らがプロデューサーとしての役割の必要性を感じられて活動されたということですね。

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