「DEEP TOKYO 山谷」が訪日客にとってメジャーとなる日
ドヤ街という言葉で表現されてきた台東区山谷。高度経済成長の面影を残すこの地域にも、日本の生活文化を求めて訪日旅行者が集まりつつあります。まだ穴場ともいえる山谷が、居住者と訪れる人、それぞれにとっての居心地を損なわず、「交流するまち」としてさらなる発展を遂げるためには、何が必要なのでしょうか。可能性と課題を探ります。
河野 まゆ子 執行役員 地域交流共創部長
目次
1.山谷地区の観光地としての潜在的魅力
台東区山谷。ドヤ街という言葉で表現されてきた当該地区は、高度経済成長期の日本のある側面における象徴のひとつであることは自明だ。数多くの建造物を作るにあたり東京に集結した労働者が、景気悪化による失業、または高齢化し、この地区に生活拠点を置くことを可能とする社会システムのかたちが、今の街の形成に繋がっている。そもそも「ドヤ」という言葉自体が、簡易宿所を指す「やど」を反対から読んだもので、安宿密集地を指す言葉であることすら、若年層では恐らく知らない人のほうが多いだろう。“いいオトナ”である我々はこうした近代以降のまちの成り立ちを知っていても、若者にとってはそうではない。どこか不思議な街、自分がいつも暮らしているのとはなんとなく異なる風景の街、として距離を置かれてしまうことも少なくない。
日本の高度成長に陰りが見られたあとの街のありようが注目されがちな山谷周辺は、江戸時代初期のまちづくりに合わせて発展してきた。浅草寺や吉原を中心として形成された浅草周辺のまちは、街区ごとに、寺町、遊興エリア、職人街、芸能街などの役割を持ち、それが連結して都市活動を担っていた。当該地区はこの役割の中では「職人街」にあたり、身体が資本の職人なればこそ食にはうるさい、という住民の特性から、飲食業が栄えた区域でもあった。
近年は、こうした街の構造に注目が集まっており、吉原の街歩きや、御朱印帳を持って谷根千~吉原をめぐるモデルコースも登場した。実際に、若い女性がマップを頼りにスマホで写真を撮りつつ吉原を歩いている姿は、5年前には殆ど見られなかった光景だ。
2020東京オリンピック・パラリンピックを控え、東京がふたたびの開発ラッシュを迎えているいま、街の「よそゆきの顔」のみならず、街の機能や構造に対して市場の興味が高まり、その足を吉原などの奥浅草へ向けていくことはある意味とても自然なことで、一過性のムーブメントに留まらない極めて理性的な行動である気がしてならない。
2.外国人の東京滞在
訪日外国人数は、堅調な増加を続けている。大都市集中だった来訪者が地方部へ拡散していく傾向が今後は強まっていくものの、日本のゲートウェイである東京を来訪する外国人の数が減少することは考えにくい。浅草地区を来訪した、または台東区北部地区の宿泊施設を利用した旅行者を対象として台東区が2017年に実施した調査結果によると、当該地区に宿泊した日本人旅行者は、関東居住者が最多で4割弱を占め、男女比は約6:3。ビジネスの利用も多く、男性ニーズが高いことがわかる。年齢層は20~30代の若年齢層が半数程度、40~50代の熟年層が4割強を占めた。外国人(*当該地区に宿泊していない人を含む)については、欧州からの来訪者が回答者の41%を占めている。日本への訪日客の四分の三以上がアジア圏であることに照らすと、欧州客の来訪率の高さが当該エリアの特徴のひとつと言える。
東京での滞在期間について、日本人は、「1~2泊」が半数以上を占めるが、外国人は「5~6泊」の比率が最も高く37%。さらに7泊以上は21%となり、1週間以上の長期滞在の需要が窺える。当該地区を東京滞在型観光の拠点として利用したり、東京滞在の途中に「中抜け」して関西や東北などへ出掛け、また同じ宿に戻ってくるというニーズがあることの表れであり、短期滞在者が多い都内のシティホテルやビジネスホテルとは異なる訪日旅行スタイルの人々を受け入れていることがわかる。
訪日客が宿泊エリアを選択した理由については、「食べ物を楽しむ」、「歴史文化を楽しむ」、「東京の日常生活体験」などが上位を占め、価格や立地の優先度は低い。欧州からの旅行者は「歴史文化を楽しむ」が最も多く、他の地域より20ポイント以上上回っているほか、北米からの来訪者は、欧州と並んで「東京での日常生活体験ができるから」が高いなど、当該地区の宿泊客に欧米人が多いことを裏付ける結果となった。地域住民にとっては当たり前になっている山谷地区の日常風景自体が、外国人にとっては価値であり、エンターテインメントになり得ることを窺わせる。
3.価格勝負の宿泊施設の激戦化
東京を来訪する外国人数は増え続けている。しかしながら、観光庁「宿泊旅行統計調査」から東京都の簡易宿所稼働率をみると、平成27年は63.4%だったところ、翌平成28年には55.2%に落ち込んでいる。山谷地区の簡易宿所においても、平成28年の桜の時期から訪日客の観光需要の落ち込みが顕著だという声を聞く。簡易宿所の需要が減退した要因のひとつに、宿泊施設の価格比較サイトの発展が挙げられよう。価格比較サイトでは、指定した日・地域の宿の最安値が並ぶが、その業態は明示されない。個室完備の簡易宿所も、一室に複数名を収容する可能性のあるドミトリーも比較サイト上では同列に扱われる。また昨今は、著名なホテルチェーンが、同一の宿泊施設内にシティホテル水準の価格帯の客室からドミトリータイプの客室まで幅広く完備するケースもある。このような「名前を聞いたことがある有名なホテルチェーン」にほぼ最安値が表示された場合は、ブランドに対する安心感から競争力は高くなる。簡易宿所が提供する「アットホームなサービス」も、「個室のあるセキュリティと安心感」も、価格比較サイト上では表現できないため、単にこの地区内で少しでも安い施設を求める客層にとっては、施設の差別化戦略が通用しにくくなっている。
もうひとつの競合が、民泊である。今や、訪日外国人の延べ泊数の1割程度が民泊とも言われているが、その需要獲得のため、浅草中心部や周辺地区に多くの民泊が進出し始めている。観光庁が住宅宿泊事業法(通称:民泊新法)施行後に把握・公開した2018年6月15日~7月31日までの民泊宿泊実績をみると、利用者の8割以上が外国人となっているほか、ひとり当たり宿泊日数は47都道府県中東京が最多の3.6泊。もはや土地が不足している浅草の中心部で宿泊客室数を増やすことは困難だが、民泊であれば増やすことができる。歴史を感じられるエリアの真ん中にじっくり宿泊できることに価値を見出すタイプの来訪者のニーズを確実に受け止めている。
4.「DEEP TOKYO 山谷」が訪日客にとっての「穴場」から「メジャー」になる道筋
(1)山谷地区の観光地区としての課題
当該地区が外来者を受け入れる地区として発展する可能性は充分にある。浅草、上野やスカイツリーなどの著名観光地からの近さ、江戸期から続く歴史とストーリーの豊富さ、街歩きができるコンパクトなサイズ感など、都内の他地域と比べて優位な点もある。その一方で、日本人や外国人などの外来者が多く宿泊している場所でありながら、未だに当該地区が「暮らしている人が主役の街」であり、「見られる街」「交流する街」になっていない。それが街区整備にも如実に表れていることが、当該地区が観光エリアとして脱皮することを阻んでいる。南千住駅からの案内表示の少なさはその一例であるが、より喫緊の課題は、この地域の象徴となる場所はここ、という地域の目玉や核となる風景がないことだ。さらには、地域が有する観光資源としての価値を訴求しきれていないために、当該地区における宿泊者の地域選択の最大理由が「安さ」になってしまっていることだ。
現状の宿泊者は、「リーズナブルで、泊まるだけの機能としては充分に足りているから」「民泊より安心安全だから」「都内に散在する安い場所・施設のなかで、路線のアクセスがいいから」という理由で当該地区に宿泊している。言い換えれば、宿泊地が台東区北部の山谷地域でなくてはならない理由はない。実際に、山谷に宿泊して日比谷や新宿まで足を延ばして観光をする外国人のニーズに照らすと、浅草が近いからここに泊まる、ということに必然性はない。
都内の主要観光地を結ぶ交通網は極めて発達しているため、他に安い宿泊集積地が発生すれば、需要はそこへ流れる。従来の価値である「安くて安全」に加え、『山谷とその周辺が、東京の他地区とは全く異なる個性と文化を持つおもしろい街』にならなければ、宿泊拠点としての競争力は相対的に低下する。宿泊拠点としておもしろい街になるためには、「そこに泊まると便利だ」に加え、「そこで過ごす時間が楽しい」、「そこの風景に興味をそそられる・その風景に混ざりたくなる」と思わせることが必要となる。
(2)観光地としての価値向上のためにできること
1)「江戸の職人街の匂いが残る、生々しい東京を感じられるまち」としてのブランドをつくること
なによりもまず求められることは、対外的なメッセージとしての街のリブランドを検討し、キャッチコピーを考え、市場に対して発信・訴求していくことだ。そして、その検討過程で示されていくであろう山谷地区の整備方向性を踏まえ、地域の「顔」となる場所の整備を行うことが重要と考える。地域の歴史的なストーリーと現状の街区のかたちを組み合わせてデザインし、来訪者を受け入れる意思の表れとなる新しい集客拠点と、古くからの街並みや商店街を活かす整備との両側面からの取組が成されることが望ましい。また、街区の整備経過段階から住民やヨソモノを巻き込み、街が変わっていく経過自体を域内外に発信していくことで、単なる看板の掛け替えではない血の通ったブランディングを推進することが可能となる。
街区の整備過程においては、短期で整備できる可変的なツール(柵、看板、のれんなど)に地区を貫く共通のデザインや材質などの決まりを設け、建物や沿道景観を彩り、「見せる街」であることを来訪者と住民双方に対して表現することで、街の清潔感が向上していくことも期待される。
継続して栄えている街は、いつも「つくりかけ」の状態をうまく保っている。ウォルト・ディズニーが「ディズニーランドは永遠に完成しない」と述べたように、可変性があるからこそ、人はそこに新鮮さや魅力を見出し、飽きずにいられる。街区のハード整備においても、完成させることが目的ではなく、いつも違う風景を見せられるまちのあり方やまちづくり手法の設計をすることが期待される。人溜まり空間や空き地などの隙間空間を最大限に活用し、これを域内外の若手のビジネスを応援できる場としてコンテナショップやチャレンジショップの出店空間とするなど、街の景観が常に呼吸をし、そこに関わるひとと景色の変化を促進していくことが望ましい。
台東区では継続的に「まちづくり『下町塾(現:台東区まちづくりカレッジ)』」を開催し、地域住民の街づくりへの参画意識の醸成や、地域の価値の発見に取り組んでいる。地域行政が指し示す山谷地区のあるべき姿の実現に向けて、地域住民の積極的参画のもとで具体的なアクションやデザインを実現させていくことができると考えられる。
2)(ある特定目的の)宿泊に相応しい地域としてのポジションを確立すること
プロモーションの課題として、域内の宿泊施設を「群」として捉えた誘客戦略や編集の不在が挙げられる。これまで、地域の観光協会WEBサイトの宿泊施設紹介ページでは、市町村内の宿泊施設を、地区、住所、業態等で分類し、無機質なルールの基に表示することが主流であった。価格比較サイトやインターネットエージェントが現在のように発展する以前は、このような施設の一覧とリスト化は消費者にとって有益であった。しかし、地区内に多くの宿泊施設が集積する当該地区においては、従来の手法によるリスト化では各施設の個性を表現できず、価格競争を助長するものにしかならない。今後は、地区内の宿泊施設について、「個性」「最大のウリ」「こんな人にお勧め」など、ライフスタイルや滞在パターン別にカテゴライズしたうえでその情報を地区内で面的に束ね、ポータルサイトを通じて発信することで、価格優位性を前面に打ち出す宿泊施設や民泊との差別化が図られ、都内の他地区にはない斬新な取組となり得よう。
3)都内移動の交通ハブに加え、ゲートウェイとの交通結節を強化すること
近年、訪日客の地方分散が進展しているとはいえ、首都圏を来訪する訪日客数も緩やかに増加することが見込まれる。通常、成田空港又は羽田空港をゲートウェイとして東京を来訪する訪日客は、鉄道又はリムジンバスで都内に移動する。このため、首都圏空港と直結する東京、新宿、品川などの既存のハブステーションは、今後の訪日客増に伴って飽和状態に近くなる可能性がある。都内交通網が発達し、宿泊施設の個性化や価格競争、並びに民泊需要が進展していくなかで、当該地区が宿泊地として選択されるためには、従来の「浅草やスカイツリー等の著名観光地に至近」「都内移動がしやすい立地」という優位性だけでは十分とは言えない。道路や水運を活用した成田・羽田からの「東京の東玄関口」としての機能をこれに付加することができれば、地区の競争力は更に高まることが見込まれるうえ、都内の交通ハブ機能を分散させることで、都内交通混雑の緩和にも資するものと考えられる。
5.おわりに
自身がプライベートで海外旅行に行く際、宿の予約時には必ずストリートビューを見る。旅行中に、街の日常風景に自分がどのように溶け込めるか、それを安全に実現できるかを確認するためだ。宿泊施設のウェブサイトやインターネットエージェントのサイトでは、その街はどんな顔をしているかも、宿を取り巻く風景や環境も読み取れない。旅行者の宿泊施設選択時の重要な基準が立地や予算であることは確かだが、それが自身のニーズと適合する宿は都市部であれば数限りなくある。立地や価格などの効率性では測れない「なぜか気になる」「どこか特別」という街の顔を見せることで、ただ寝るだけではもったいないと思わせることができる街になれるなら、ある特定の宿泊価格帯ニーズ内の競争において、山谷が「どこか特別」なポジショニングを獲得できる可能性は高いはずだ。「どこか特別」どころか「突出して特別」なカフェバッハのシダモを飲みながら、10年後の山谷の「国際的なDEEP TOKYO」としての顔に思いを馳せる。