すべての人が楽しめる温泉を目指して ──宮城県東鳴子温泉での実証実験から──
温泉地におけるダイバーシティ(多様性)の実現に向けて、宿泊客なら誰もが使える貸切風呂を通して、すべての人が楽しめる温泉地を目指す取り組みを推進している、宮城県東鳴子温泉の「ひとにやさしい温泉地プロジェクト」を事例に考えていきます。
橋本 惇 研究員
目次
人前で裸になることに抵抗感のある方にとって、貸切風呂のある温泉施設や旅館は心強い存在です。多様な価値観を受け入れるダイバーシティ(多様性)は社会全体で取り組みが進んでいますが、温泉地におけるダイバーシティの実現について、すべての人が楽しめる温泉地づくりを推進している、宮城県東鳴子温泉の「ひとにやさしい温泉地プロジェクト」を事例に考えていきます。
1.東鳴子温泉ひとにやさしい温泉地プロジェクト
人前で裸になることに抵抗感があり、貸切風呂を必要としている方は意外といると思われます。誰もが・いつでも・自由に貸切風呂を利用できれば、より多くの人がより快適に温泉を楽しるのではないでしょうか。
2012年に発足した「ピンクリボンのお宿ネットワーク」には、乳がん手術を受けた方でも安心して楽しめる宿泊施設が全国100軒以上加盟しています。多くの施設で、シャワーの仕切りや湯あみ着、貸切風呂といった、他の利用者に裸を見られにくいサービスが提供されています。
筆者は学生時代のサークル活動で宮城県大崎市の東鳴子温泉に通い、湯治文化を盛り上げるお手伝いをしていました。湯治とは、心身の保養・療養・休養などを目的に温泉地に長期滞在する伝統的な旅の文化です。現在も湯治場の伝統を色濃く残す東鳴子温泉ならば、ダイバーシティの視点を取り入れ、すべての人が楽しめる温泉地づくりができるのではないかと考え、2019年に「東鳴子温泉ひとにやさしい温泉地プロジェクト」を立ち上げました(図1)。ポイントは以下の通りです。
- 11軒の旅館のうち7軒に、宿泊者は追加料金なしで自由に使える貸切風呂があること
- 湯治宿のアメニティやサービスなどはシンプルで、多くの方にとって使いやすいといえること
- 1,300年続く東鳴子温泉の歴史の中で、身分の上下を問わず、あらゆる人々を受け入れてきた湯治場の伝統が、すべての人が快適に温泉を楽しめる環境の素地となること
ひとにやさしい温泉地プロジェクトの対象はもちろん「すべての人」ですが、今回はトランスジェンダーやXジェンダーなどの方(注1)と、乳がん手術を経験された方を対象に調査を行いました。
また、本プロジェクトの目的の1つに、貸切風呂の価値の発信もあります。貸切風呂は、ひとにやさしい温泉地プロジェクトが始まる前から多くの人に利用されてきました。「すべての人が心から温泉を楽しむための基盤」として貸切風呂を捉えることで、旅館のサービスを地域全体の魅力に高めることができます。「今あるもの」の新たな魅力を訴求することで、持続的な観光地づくりに貢献することができると考えました。
注1:多様な性のあり方をもつ方を「LGBTQ+」と呼ぶこともあります、これは、レズビアン(Lesbian)、ゲイ(Gay)、バイセクシュアル(Bi-sexual)、トランスジェンダー(Trans-gender)、クィア(Queer:性的マイノリティを肯定的なアイデンティティとしてとらえる自称)あるいはクエスチョニング(Questioning:自身の性のあり方を決めていないか、決まっていない)の頭文字をとっています。
2.実は気づかれにくい温泉に対する多様なニーズ
最近、日本航空が2020年10月から機内アナウンスの「Ladies and gentlemen,」の言い方を廃止したことが話題になりました。航空のサービスに性別が関係ない上に、さまざまな性のあり方をもつお客様に配慮するためです。温泉の場合、多くの人が気付きにくいことですが、トランスジェンダーやXジェンダーの方々にとって、身体的あるいは戸籍上の性別に応じて入る風呂を選ぶことは苦痛を伴うことがあります。無理に「性別」の選択を迫られていると同時に、それを周囲に宣言するようなものだからです。
筆者が、多様な性のあり方をもつ方々に、温泉の利用に関するアンケートを行ったところ、以下のような経験が寄せられました。様々な性のあり方を持つ方が生活し、旅行する一方で、多数派を前提としたサービスは少なくありません。
- 他の利用者から身体をジロジロ見られたことがある
- Xジェンダーなので女湯に入ることに抵抗感がある
- アメニティが男女で異なると使いづらい
- 同性カップルで温泉旅館に宿泊した際「友人同士ですね」とわざわざ言われて不快だった
「特別扱い」ではなく、誰もが普通に、快適に過ごせることが、すべての人に開かれた地域をつくる上で重要です。温泉においては、誰もが手軽に利用できる貸切風呂が、答えの一つとなります。大浴場に抵抗感のある方にとっては、安心して温泉に入ることができます。抵抗感こそなくても、一人で、または同行者と心置きなく温泉を楽しめます。
トランスジェンダーの方への聴き取りでは、「客室付きの風呂がある温泉旅館に泊まることがあるが、料金が高めなので頻繁には利用できない」、「混浴風呂も利用するが、脱衣所で裸を見られることには抵抗感がある」、「貸切利用が利用できるかどうかわかるだけでも、トランスジェンダーにとっては効果的だ」などの意見が聞かれました。
3.東鳴子温泉における実証実験
2019年9月、地域のイベントに合わせて、ひとにやさしい温泉地プロジェクトも実証を始めました。協力旅館をはじめとする各施設でのパンフレット(図2)配布と、協力旅館の宿泊者に対するアンケート調査を行いました。
アンケートには宿泊者46名から回答があり、そのうち36名がプロジェクトに対して、理解もしくは賛同してくれました。自由記述欄には、「性的マイノリティでも乳がん患者でもないが、貸切風呂はありがたい」、「乳がんを患った友人に勧めたい」、「共同の風呂に抵抗感のある高齢者にも薦められる」などの意見が寄せられました。宿泊者がいつでも・誰でも・何度でも利用できる貸切風呂の価値が高いこと、本プロジェクトはおおむね理解または賛同できることが明らかになりました(図3)。
詳しく感想を伺うため、乳がん手術を経験された方4名と、トランスジェンダーの方、性的マイノリティ支援者の方に実際に宿泊していただきました。その結果、「プロジェクトを知って嬉しく思った」、「久しぶりに温泉旅行ができた」といった好意的な感想をいただきました。
一方で、多様な性のあり方に対する理解や、情報の整理・発信などを求める声も聞かれ、今後の課題も浮かび上がってきました。
4.湯治宿のシンプルなサービスは「ひとにやさしい温泉地」の手がかりになる
貸切風呂は、温泉を楽しみたい様々なニーズに対応できる可能性を秘めています。人前で裸になることに抵抗感のある外国の方、人工肛門や人工膀胱を使用しているオストメイトの方や、タトゥーのある方など、様々な方が気持ちよく温泉を楽しめる可能性をもっています。そしてもちろん、人前で裸になることに抵抗を感じる事情の有無を問わず、貸切風呂が利用できて嬉しい方は多いはずです。
一方で、貸切風呂以外の様々なニーズにも応えていく必要があります。例えば、抗がん剤治療を行っていると、においに敏感になる場合があり、施設の分煙・禁煙などの配慮が必要となります。また性的マイノリティの方にとっては、ジェンダーレスなアメニティやサービスが快適に過ごす上でカギとなります。
また、女性限定のアメニティや、豪華な浴衣といったジェンダーの差異を強調する旅館のサービスが、すべてのお客様に喜ばれるかどうかは見直す必要もあるでしょう。長期滞在も可能な湯治宿で提供されるようなシンプルなサービスは、多様なニーズに応える可能性をもっています。アメニティを客室に置かずロビー周辺や大浴場に集約してコストを削減するとともに、自由にアメニティを選べるようになり、宿泊客の満足度が上がった事例もあります。サービスを見直して旅館の生産性も上がれば、旅館で働く人にもやさしい取り組みだといえるのではないでしょうか。
現在は新型コロナウイルスが流行し、安全の確保と経営の維持が重大な課題となっています。しかし自由に旅行できる日は、いつか必ず戻ってきます。誰もが温泉を心から楽しめるように、東鳴子温泉ひとにやさしい温泉地プロジェクトをこれからも続けてまいります。
本プロジェクトは東大温泉サークルOKR(おける)の「鳴子ワカモノ湯治」プロジェクトの一環として行いました。環境省 チーム新・湯治の「新・湯治コンテンツモデル調査」に採択され、モニター宿泊調査の機会をいただきました。環境省温泉地保護利用推進室には、これまでにない取り組みを支援していただき、(公財)日本交通公社には事務局として、私たちの課題意識に共感し熱心にお力添えいただきました。調査や資料作成にあたっては、性的マイノリティの当事者と支援者の団体「東京大学TOPIA」の方々に全面的にご協力いただきました。また、若年性乳がん患者の会「Pink Ring」の皆様には様々な角度から貴重なご意見をいただきました。皆様に御礼申し上げます。
出典
ピンクリボンのお宿ネットワークホームページ(https://www.ribbon-yadonet.jp/)
日本航空プレスリリース「日本初『JAL LGBT ALLYチャーター』がジャパン・ツーリズム・アワードを受賞」(https://press.jal.co.jp/ja/release/202009/005775.html)
東京大学TOPIA・Tottokoホームページ「東京大学から変えていく社会:駒場祭2019」(https://utgender.wordpress.com/2019/11/06/駒場祭2019・展示/)