クロス・ツーリズム ロゴ 【特別寄稿】“Tourism × 旅の本質” 人はなぜ旅に出るのか

溝尾 良隆

溝尾 良隆 立教大学名誉教授
公益財団法人日本交通公社評議員

印刷する

目次

はじめに -旅、旅行、tourism、観光とは

芭蕉が「『おくのほそ道』の旅に出る」とはいうが、「旅行に出る」とはいわないだろう。「旅」には、一人で行く、旅行会社に頼まないというようなニュアンスがあり、旅に求める強い目的がある。「旅行」となると、旅行会社のツアーに参加したり、数人で楽しむための旅行であったりする。英語に置き換えるなら、旅はtravel、旅行はtourに該当しよう。 
 travel の語源は、ラテン語の「拷問台」、そこから派生して「苦しみ、つらいこと」であるように、厳しい、強い覚悟を秘めた旅である。フランス語のtravail は、「仕事、労働」の意味で、旅の意味はなく、英語の「苦しみ、つらい」の意味に近い。芭蕉の『おくのほそ道』には、俳諧の普及、尊敬する西行のあとをたどる目的があった。スパイとして国情視察だったという説もある。生涯、旅に暮らし歌を詠んだ若山牧水、放浪の俳人山頭火なども、この例である。
 旅行については、フランス語にtour があり、塔や高層建築の意味とともに、「一回り、ろくろ、旋盤」の意味がある。要するに、回るのである。「tour de France(フランス一周自転車競走) 」はなじみがあるだろう。
 日本ではtourismを「観光」と訳しているが、UNWTO(国連観光機関)ではtourist を、「少なくとも24時間以上、そして最長1年以内の期間、居住地を離れて再び居住地に戻る人」と定義する。旅行目的には、「レクリエーション、ホリデイ、スポーツ、ビジネス、会合、会議、研究、友人・知人訪問、保養、伝道」をあげる。この定義からいくと、tourismは「観光」ではなく「旅行」であり、旅行には数多くの目的があることがわかる。旅行や宿泊、飲食、運輸などの会社は、旅行目的を問わず利用するすべての旅行者を対象としているtourism industryであって、これは「観光産業」ではなく「旅行産業」である。
 日本の多くの調査では、旅行目的を「観光」「ビジネス」「家事帰省」「兼観光」に分けてから、観光目的の旅行者の旅行実態を分析している。筆者は、旅行者の行動の相違、対象となる資源の相違から、観光をさらに「(狭義の)見る・学ぶ観光」「レクリエーション」「宿泊」の目的別に分けて、旅行者と旅行地を分析している。

1. 歴史からみる「旅」の目的

大衆化された「旅行」が始まる前の「旅」の目的に分けて、いくつかの事例を紹介しよう。

  1. 「より快適な生活を求めて」

    われわれの先祖は、約10万年前にアフリカのサバンナ地帯にさまよっていた人たちで、アフリカから脱出して、アジア、西ヨーロッパに住みついた。さらにアジアの太平洋岸を北上し、アラスカに渡り、1万から1万5千年前に北アメリカ一帯に彼らの居住は広がり、南下して南アメリカ大陸全域に住みついた。一方、これより早く、東南アジアから島伝いにオーストラリアに向かい、居住した人たちもいる(W.H.マクニール 2008)。われわれの先祖は快適な生活を求めて、移動をしたのである。
     こうした「旅」の目的は、明治から大正にかけて、日本からブラジルやハワイへ渡った移民や、1854年ころ、ジャガイモ飢饉により、アメリカ合衆国、カナダ、グレート・ブリテン島へ向かったアイルランドからの大量移民にもつながる。今日でも、宗教問題から戦争が起き、難民を強いられる中近東の人たちがいる。これらは、より安全安心な生活を求めての移動である。

  2. 「領土拡大のための戦争に伴う旅」

    アレクサンドロスは、紀元前334年から8年間戦い続け、ペルシャ、シリア、フェニキア、エジプト、インドにまたがる広大な地域を支配した。彼は地域の文化を尊重し、ギリシア文明と征服したオリエント文明との融合、民族の融合を図った。こうして華やかなヘレニズム文化が誕生した。

  3. 「学びの旅」

    玄奘三蔵のインドへの旅。中国の仏典の原典を紐解く目的で、607年、28歳のときに出国した(他説もある)。645年、38年間の遊学は終わった。その距離は約2万5千キロ、旅行日数は17年4カ月の旅だった。旅行記『大唐西域記』12巻が著わされた。
     1897(明治30)年のチベットへ仏教の原典を求めた河口慧海の旅は、玄奘三蔵と同じ目的ながら、慧海の旅は数段と厳しかった。外国人に固く国を閉ざしていたチベットに入るのに、ネパールから間道を、磁石を頼りに3年がかかった。しかし1年いる間に日本人と分かり、追い出された。そのため研究不十分と考え、再び1904(明治37)年、インド・ネパールに出かけ梵語の研究をしながら、8年かけてチベットに入った。今度はチベットでは大歓迎であった。
     同じころ、建築家伊東忠太は、法隆寺建築のルーツを探るため、1902(明治35)年3月から1905(明治38)年6月まで、中国、ビルマ、インド、エジプト、中東、ドイツ、ハンガリー、イスタンブール、目的地ギリシアへと旅をした。案内人も雇わず単身で馬やロバで踏破した。そのあとは、外国への旅の許可に必要だった、彼にとっては付録の欧米にも35泊滞在した。帰国後、明治神宮、湯島聖堂、築地本願寺、大倉集古館、震災記念堂などを設計した。
     あこがれのフランスに出かけた、永井荷風、与謝野鉄幹ら作家、黒田清輝、藤田嗣二らの画家たち。まだこのころパリ行きは庶民には高根の花で、詩人萩原朔太郎さえ1913(大正2)年に、「ふらんすに行きたしと思えども ふらんすはあまりに遠し」とつぶやくのである。
     日本の修学旅行は、世界的にも「学びの旅」の代表例といえるが、英語圏に属するイギリスのグランドツアーが、観光史では必ず紹介される。グランドツアーは17世紀から始まり、18世紀初頭に最盛期を迎える。ピーク時には年に4千人が英国から大陸へ渡った。19世紀に入るまで続いた。英国の裕福な貴族の子弟が、当時の文化的先進国であったフランスでフランス語と社交生活を学び、イタリアで古代ギリシア、古代ローマの文化、芸術などにふれて帰国した。子弟には、家庭教師が同行し、期間は数か月のものから1~2年、長い時には8年にも及んだ。若さゆえ、遊びほうけた若者も多かったようである。
     その他、日本では、まだ航海安全が確立されていない時代の学びの旅として、遣隋使、遣唐使がある。

  4. 貿易・商業の旅

    マルコポーロは、当時、巨大な国である元に出かけ、皇帝に気に入られ17年間も仕えた。その間に中国各地を視察し、皇帝に報告をした。ヴェネチアに戻った後、ジェノヴァで捕虜になり、獄中で口述したのが(異説あり)『東方見聞録』である。この書はヨーロッパ社会に大きな影響を与え、大航海時代の先駆けとなった。中国の東方ジパングは黄金が満ちあふれていると伝える。インドはもともと西欧人にとって東方世界の総称で、もともと黄金や香料を始めとする豊かな物産に恵まれている地と想像され、あこがれの地であった。
    コロンブスは地球球体説から、スペインから西回りでインドに到達できると確信した。1492年から4度にわたり、西インド諸島、中央アメリカ、南アメリカ北部を航海。西回りインド航路発見を宣言した。今も西インド諸島にその名が残る。
     1498年、ヴァスコ・ダ・ガマがインド・カリカットに到達した。翌年、香辛料をポルトガルに持ち帰る。1522年、マゼラン一行(マゼランはフィリピンで亡くなる)は、マゼラン海峡から太平洋にでて、地球を一周し地球球体説を実証した。

  5. 宗教的な目的―サンチャゴ・デ・コンポステラ、巡礼の道

    9世紀初頭(813年)、紀元44年にエルサレムで殉教を遂げた聖ヤコブとされる棺が「発見」され、この上に小さなサンティアゴ教会が建てられた。発見の伝説を、危機的状況にあった王権と教会が利用し、巡礼が整えられていった。レコンキスタ(国土回復運動)で苦戦していたキリスト側に、白馬に乗った騎士姿の聖ヤコブが加勢し、勝利に導いたという伝説があり、この地がレコンキスタの精神的シンボルとなった。中世期最大の巡礼地に成長し、11世紀末から13世紀にかけて全盛期を迎え、最盛期年間50万人の巡礼者があった。
     しかし、ペスト、百年戦争、宗教改革で16世紀に巡礼者は激減。プロテスタント諸国では、聖人崇拝や巡礼が禁止となり、カトリックでも聖マリア信仰が隆盛になる。ヤコブの遺骸が行方不明になり、19世紀半ばから巡礼者は激減したままだった。1993年、世界文化遺産に登録されたのが、今日みる巡礼者の増加に大きく作用した。
     日本の宗教目的の旅では、平安時代から室町時代初期までつづいた熊野詣、それ以降、盛んとなっていく伊勢神宮参拝や四国八十八か所霊場巡りがある。

2. 楽しい「旅行」の登場

個人が心おきなく旅行に出かけるには、時間と金に余裕があり、旅行に行きたいという強い意欲があること、それらを受け入れる交通機関や宿泊施設の整備、旅をサポートする旅行会社の存在が必要である。
 こうした条件をいち早く可能にしたのがイギリスで、18世紀後半からはじまった産業革命、ワットによる蒸気機関の改良により、蒸気船・蒸気機関車が登場した。1841年、食事、鉄道などを組み込み出発から帰還まで、旅行者がすべておまかせする世界初のパック旅行をト-マス・クックが考案した。大好評となり、クックはその後、スコットランド、エジプト、パリ万博、スイスなどに多く送客した。イギリス国内では、鉄道の発達によりブライトンやブラックプールなどの海浜リゾートが人気を集めた。
 日本の楽しい旅行は、東海道歩きの伊勢詣に始まる。旅は神仏参詣に事よせて出かけた物見遊山であった。弥次喜多の『東海道中膝栗毛』には、街道筋に宿屋や茶屋が発達し、鞠子のとろろ汁、桑名の時雨蛤など普段は賞味できない料理や食べ物を味わう旅の楽しみがふんだんに登場する。当時の川柳に「伊勢参宮 大神宮へもちょっと寄り」とあり、実際は神宮近くの古市で遊ぶのが目的と揶揄しているのである。
 旅行に必要な往来手形の発行には、旅行目的が、農民の体力維持のための湯治と信仰心を篤くし秩序を守る気持ちが醸成される寺社参拝であればよかった。
 明治時代に入りに大きく旅行を変えたのは、鉄道の登場である。東北や九州、北海道の自然景勝地への旅行が可能になった。外国人の往来が増え、主としてイギリス人によって、登山、ゴルフ、別荘などが導入された。
 トーマス・クックよりもやや遅れたが、日本においても近代旅行業が誕生した。1893(明治26)年、外国人旅行者の誘致や受け入れの組織として、喜賓会(Welcome Society)が東京商業会議所に設けられた。しかし会費の減少、経済不況などで、会の財源が枯渇し、業績も不振となってきた。会の事業を継承する強力な機関の創立が期待され、後に首相となる鉄道院総裁原敬が、新機関の年間予算の50%にあたる2万5千円を鉄道会計でまかなうよう決定。残りを私鉄、ホテル、汽船等の関係業者からの出資や、財界、政界らの援助があり、1912(明治45)年3月12日に任意団体「ジャパン・ツーリスト・ビューロー(Japan Tourist Bureau)」が誕生した。会名については、日本にもアメリカにも通じるからという意見から英語名で決定した。JTBのTは現在のTravel でなく Touristであった。本邦唯一の、訪日外国人のあっ旋機関、初の近代旅行業の誕生である。
 昭和戦後、1960年代から旅行の大衆化・大量化が進む。1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博(通称)のビッグイベントが牽引車となった。移動には、車、鉄道、航空と、距離と時間により多様な交通手段が選択できるようになった。宿泊施設も、旅館にホテルの利用が加わった。万博後に新しい旅行スタイルとして、ディスカバー・ジャパンが展開され、旅行の主役は女性となる。
 1964年の海外旅行の自由化から海外旅行者は増加傾向をたどり、1990年に1,000万人を突破し、2018年に1,895万人となった。近年、海外旅行は停滞気味で、それに反し、インバウンドは2003年の小泉首相(当時)によるインバウント観光の推進、その具体策として観光立国推進基本法の施行(2006年)、観光庁の設置(2008年)となる。インバウンド観光は急騰し、2018年に3,000万人を突破した。

3. 旅・旅行の効用

旅行者は何を望んで旅行に出るのか。「旅」には、上述したように目的が明確である。それでは「旅行」に出かける目的は?
 第1に、変化欲求。1週間、1年間、毎日同じリズム(マンネリ)の生活から脱却したい。コロナ禍で自宅で過ごす時間がふえて、日常生活がそれまで以上に固定化されてきた。「GoToトラベル」が問題だったというのも、それだけ影響が強かったことを示している。土日曜に旅行で気分転換を図り、その後数週間は恒常化した生活を送ることができる。その繰り返しで1年を過ごす。欧米ではバカンスが定着している。長期間、異なる環境のリゾートで、これまでの日常の瑣事を忘れ、心が空っぽ(バキュウーム→バカンス)になり、心身ともに爽快になる。自然や気象に恵まれた地(リゾート)でバカンスを過ごすことで、1年間のルーチンの生活が持続するのである。
 第2に、未知へのあこがれ。あの国・あのまちに行きたい。アルプスの絶景を見たい。美術館へ行って、あの絵を見たい。こうした欲求を満たしたい。事前に写真を見ても、動画をみても、イグアスの滝の前に立てば、その迫力には圧倒される。フィレンツェの花の聖母寺(ドゥーモ)の大理石の色や質感は、実際に触ってみないとわからない。
 第3に、自己達成、自己拡大を目指す動機。日本百名山を制覇したい、JRの全路線を乗ってみたい、習った語学をその国に行って試してみたいという目的。
 第4に、友人、家族との団らん、親ぼくの楽しさを、旅行で満たす。
 第5に、多くの人が何かの目的で海外に出かけ、その国を知る、その国の人と接する。一方、海外から日本に来て、日本を知る、日本人に接する。こうした相互交流により異文化を理解し、国際平和の安定に貢献するのである。国際連合は1967年の国際観光年で「Tourism, Passport to Peace」をスローガンとした。核兵器や弾道ミサイルを保有するのはハードパワー、それに対し、異文化理解はソフトパワーである。日本が隣国の中国や韓国と、政治の世界で軋轢があっても、それほど国民が熱しないで冷静を保っているのは、お互いが旅行をしてその国の良さ、その国の人を理解しているからである。
 第6に、外国人・日本人が、国内を旅行することで、地域の活性化や国民経済の発展に寄与する。旅行業界にはさらに日本人の海外旅行の減少が、経営悪化に追い打ちをかけている。UNWTOは、開発途上国の経済発展にエコツーリズムの振興を奨励している。

おわりに

現在、コロナ禍によって、日本人の国内・海外への旅行、外国人の訪日旅行がかなり制限され、交通業、宿泊業、旅行業など旅行産業はきわめて厳しい状況に置かれている。しかし、これまで見てきたように、旅行は人間にとって快適な生活を送るために必要なものである。「冬来りなば春遠からじ」。じっと耐えて、自由に移動できる日が、1日も早く訪れるのを期待し、本稿のおわりとする。