クロス・ツーリズム ロゴ 【特別寄稿】“Tourism × 観光地域” 観光地域における、経済環境変化への対応 ―変えてはいけない、変えなくてはいけないモノ・コト、別府事例から―

鶴田 浩一郎

鶴田 浩一郎 社団法人オンパク 代表理事
ホテルニューツルタ 代表取締役社長

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目次

はじめに ~脅かされる安心・安全産業としての観光~

観光は安心・安全を前提としており、なによりまして「平和」を基盤とした産業である。
 2019年末から始まった新型コロナ禍により、世界的に人流は抑制され、特にサービス産業、とりわけ観光、宿泊、飲食、エンタメ産業は他産業に比して戦後最悪といってもよい低迷を続けている。
 2022年2月24日、ロシアのウクライナへの侵攻が始まって以来、ニュースでこの戦争が報じられない日はない。国際政治的には、民主主義と権威主義の分断といわれるほど深刻な事態を招いている。
 また、わが国では、毎年のように地震、豪雨などの自然災害が続いている。2022年2月に発生した震度5の日向灘地震は記憶に新しく、東北では同年3月に震度6強の大きな地震に見舞われた。
 あらためて、「平和と安心・安全」があってこそ交流人口が増え、「自然や文化・歴史」は相互に異なるものだ、という認識が深まる重要性を感じる。コロナ禍の閉塞感がなければ、ウクライナでの戦争もなかったかもしれない。

コロナ禍のわが国の観光の現状を見てみよう。2019年を通常年としてみると、2021年の総宿泊者数はほぼ半減の52.9%で、とりわけ外国人宿泊客の多かった東京などの都市圏の打撃は大きい。大分県は54.3%とほぼ平均値並みとなっている。政府方針である2025年訪日外国人6,000万人に向けて、先行した自治体が苦しんでいるようにも見える。
 一方、3年目を経過し、観光業界はこの苦難な環境に徐々に順応し、落ち着いた経営ができるようになってきた。この時期よりも悪くなることはないと考えると、With Coronaのなかでいかに成長するかというスタート地点に立ったともいえる。
 コロナ禍とウクライナ戦争の長期化により、経営環境の悪化は過去例をみないほどだが、長期的な視点に立ってみると、同様の悪化は地域経済のなかで何度か経験している。それは日本のマクロ経済と密接に関係する一方で、地域のまちづくりの方策や人材によっても「変化」することを私たちは知っている。
 このような苦難の時代こそ地域本来の総合力を再度見直して、各地域や個々人が変化するマーケットに対応する思考と実行力が必要とされる。それをおざなりにする地域は、長い低迷の時代に入らざるをえないだろう。

ここでは別府観光の90年代以降の盛衰を振り返り、After Coronaの「変化」にいかに備えるのか検証してみたい。

1.別府観光の盛衰と観光まちづくり

歴史的に別府観光は、1868(明治2)年の別府港築港と関西航路開通から始まる。以来、長い観光の歴史のなかで盛衰を繰り返し、その担い手である会社や個人も30〜50年で変化してきたとみられる。
 近年の大きな変化は、わが国のバブルが崩壊した1990年から92年に起こった。東京でのバブル崩壊は1988年とされるが、当時は東京の景気が地方都市に波及するには12カ月から24カ月のタイムスパンが存在した。いまでは世界景気さえ地方都市に即座に飛び火してくる時代、のんびりしていたものだ。

バブル崩壊の荒波に飲み込まれるなか、別府は幸運なことに、1995年に当時の西日本最大のコンベンション施設である「ビーコンプラザ」が竣工し、ご祝儀イベントに湧いた。1996年には遅ればせながら高速道が初めて開通し、車輌移動の急増が本格的に始まった。
 このとき、他の観光地はバブル後遺症が続いており、別府のように社会環境の幸運に恵まれた地域だけが観光回復を享受していたようだ。宿泊施設では1995年から97年にかけて、昭和40年代以来の空前の増改築ブームが起こっていた。増新築の客室数は別府で約700室程度にも達し、特に洋室の新築が目立ち、将来の高齢化社会(ふとんでの寝起きは高齢者にはつらい)や外国人マーケットに向けた準備も徐々に整備されつつあった。
 2つの大きな社会インフラ整備だけが要因の回復は、逆目にも出る。バブル後のマーケットは団体から個人へと大きく変化していったのだ。マーケット変化を認知しながらも、業績が回復したことから、経営判断は数歩遅れてしまった。
 さらに、それまでの観光地の行政施策は単にプロモーションだけを行うのが通例で、その根拠となる宿泊統計さえ信用に足らないものであった。このようなことから、官も民も束の間の回復を一時的なものと認識できずに、次に最悪の局面を迎えることになる。

1997年は日本経済にとってもエポックメイクな年であり、別府観光にとっても長い低迷期に入る年にあたる。同年、アジア金融危機、国内の金融不安、消費税5%アップ等が重なり、過去経験のなかったデフレ時代に突入していく。1997年の後半から明らかに単価は低下傾向をみせ、別府観光の主要マーケットであった団体旅行が消えていった。
 この時期に日本の観光史で特筆すべきことが起きていた。別府から車で30分の隣村、由布院の全国的な評価の高まりである。1980年代後半から民を中心に「ムラづくり」に取り組み、大分県の「一村一品運動」とも呼応するかのように知名度が全国に広まっていた。小さな宿の品質、由布岳がどこからでも見え、田畑が広がる自然景観など、過去の温泉観光地とは真逆の道を探った結果だ。
 由布院は、個人客が高く評価する地域へと変貌を遂げていたのだ。この由布院モデルは、これ以降も地域づくりの成功事例として、2008年のリーマンショックの頃まで高く評価されることになる。旅の雑誌『るるぶ』などの大分県特集も、表紙は由布院、そして巻頭では由布院が紹介され、次に別府となる。別府の温泉地としての評価が陳腐化していたことを、あからさまに認識させられることになる。

2.底打ちしてから盛り上がる別府のまちづくり

別府のまちづくりの萌芽は、1990年代中盤に「別府八湯(べっぷはっとう)」という昔ながらのネーミングを再度現場で復活させようとする民間の試みから始まる。由布院が全国ブランドとして評価が高まるなかで、別府の「再ブランド化」ともいえる試みだ。別府は、そもそも八つの温泉地帯の集合体で、それぞれが集落や村単位であり、明治以来、合併を繰り返して現在の別府市があり、戦後は「別府温泉」ブランド一つで売ってきた歴史がある。別府の最盛期には、由布院も「奥別府」として売ったことがあるほどのブランド力を誇った。
 その時に行ったのは、別府が団体温泉地として陳腐化した後、個性あるそれぞれの温泉地帯を独立した温泉地としてブランド化しようとする試みだった。
  注)八つの温泉地帯(別府八湯)は、別府、浜脇、亀川、鉄輪、堀田、柴石、観海寺、明礬を指す。

1994年5月に、別府八湯循環バスとして「スバッチ」が運行されたのが最初の事業だった。八湯の「8」と「蜂」をかけて、蜂が飛ぶ絵をロゴマークとした。民間の発案で別府市、亀の井バス(西鉄系地元バス会社)、JTB旅連大分支部などが協力・支援した。
 だが、乗車客は増えず、赤字が続き黒字転換の見込みがみえないまま、1年も継続できず終了せざるを得なかった。歴史的な温泉エリアであり、それぞれの個性があっても、そのままの状態では地域の住民さえ振り向いてくれないというのが現実だった。

地域に個性があっても8つの温泉地をすべて売り出すには時期尚早で、次のような課題を解決していく時間が必要だった。
(1)各温泉地帯のブランド化のための、まちづくり人材や組織づくり。
(2)地域住民がまず地域の個性(温泉の質、歴史や自然、文化等)を認識する。言い換えると、八湯それぞれの住民が自分の住む場の個性を認識し誇りに思うこと。
 現在から考えると地域ブランド化の基本であるが、当時はそれさえ分からず闇雲に走った感がある。

3.まずは別府温泉から「クリスマスHANABIファンタジア」

1994年12月に冬の花火として「クリスマスHANABIファンタジア」が始まる。ほぼ1年前から準備していた別府駅周辺中心街(別府八湯のうち別府温泉エリア)の「世紀末イベント」であった。当時、クリスマスの24~25日、別府は閑散としており、地元学校の教員の忘年会が開催される程度のオフ期に相当した。
 このことから、中心街に人を集めるイベントとして企画した。当時、冬の花火は珍しく「別府の奇策」とも称された。このイベントは民間主導で開催され、第1回目の総予算は2,200万円、開催場所も別府市所有の埋め立て地(当時は6,000坪の空き地で、現在はショッピングモール・ゆめタウンが建っている)を市から1週間ほど借り上げた。
 中心街にある商店街、飲食街、旅館街が一体となった実行委員会(この指止まれ型)が設立され、このとき初めてイベントはまちづくりのためという認識が生まれ、中心街各所でイベントが開催される2日間となる。そして、この委員会からその後のまちの人材が育っていった。
 第1回目は成功裡に終わり、継続事業となったが、同委員会は世紀末の2000年で役割を終えた。その後、市民の強い要望で別府市観光協会がイベントの継続を図ることになり、現在でも続く別府の冬の風物詩となっている。
 また旅館業界で特筆すべきは、このイベントの2日間は旅館組合企画として「1泊朝食型」を販売したことだ。会場に出向いて、まちで飲食してもらい、閑散としたまちを盛り上げることに注力したのだ。それまで、旅館は夕食、お土産も囲い込むといわれ、批判もされてきたが、これをきっかけに1泊2食の旅館型営業にも変化がみられるようになる。

4.1996年から次々生まれるまちづくり団体

別府のまちづくり史に欠かせないイベントが、平成8(1996)年8月8日8時8分8秒、別府の氏神ともいえる朝見八幡宮で開催された「別府八湯独立宣言」である。別府産業観光経営研究会(=産研、別府商工会議所に事務局を置く民間提言団体)が主催し、各温泉エリアの独立に賛同する団体や個人が連携して実施された。
 この動きに呼応するように、1997年2月の「鉄女(かんなめ)会:鉄輪温泉の小旅館の女将の組織」設立をはじめ 2001年ごろまで様々な民間まちづくり団体が誕生し、まちづくり事業やイベントが実施された。それぞれは小さな団体だが、尖った動きが優れており、同じ方向性をもつ熱意ある人材が集結していた。ただ、小さな連帯組織だけに資金やプロモーションも欠けていた。
 そこで、これらの動きを総括するような形で、2001年に「ハットウ・オンパク(別府八湯温泉泊覧会)」が組織化された。各団体はまさしく別府の将来を担うテーマを背負っていたことから、連携総括組織が自然に生成し、大分県から資金的な裏付けも得て「ハットウ・オンパク」というイベントに集結していった。
 その後、オンパク事業は厚労省、経産省、総務省等から高く評価され、まちづくりや観光における地域資源の「発掘・発見・磨き上げ・商品化」の視点からノウハウを深化させた。2006年、オンパクは函館に横展開事業を開始し、その後全国展開へと拡大していく。別府市全域においては、2014年秋のオンパクにてその役割をひとまず終えることになる。

5.2001年から2006年、最悪期の宿泊業界の実態

バブルの崩壊以降、一旦は回復した別府観光だが、1997年以降に再び悪化が始まる。その後、金融庁の方針もあり、地方銀行の不良債権処理が本格的に始まる。目にみえる形では2001年から2005年ごろまで、全国で旅館ホテルの廃業、破綻や譲渡が発生した。
 別府では、2001年の超大型旅館「杉の井ホテル」の大手金融資本への譲渡から始まり、2006年ごろまで続いた。破綻・譲渡等で経営が代わった際の室数は約1,200室にのぼる。杉の井ホテルはもともと600室規模の旅館業態であり、雇用確保を旗印に破綻処理を行い営業が継続されたため、その後差し引き約600室の破綻の引き金を引くことになる。
 要は、別府市の宿泊客が増えないなか、2001年時点で約600室の供給過剰が発生していたにもかかわらず、営業が同規模で継続されたことから、その後2006年までに財務的に脆弱な約600室(供給過剰分)が破綻したものと説明できる。
 地域の需要(=宿泊客総数)と供給(=総客室数)のギャップのツケは必ず中期的に払わされるものであることを痛感した。観光地域を経営する視点で考える組織や人材はおらず、不良債権だけをみて処理をしてきたツケを長期に地域として支払うことになった。「木を見て森をみず」の諺どおりのことが起こったわけだ。

一方、当初は地方銀行における大型宿泊施設の不良債権処理はほとんど実例がなく、政府系銀行も債務カットの実例がなく、現在のような債権処理スキームができていなかったことも問題を長引かせる要因となり、大型観光地にとっては芳しくない評価が蔓延することになる。
 観光まちづくりの萌芽が比較的早く始まった別府で、2005年にはほぼ人材が豊富に出そろい、地域資源の発掘、発見、商品化も始まっていたものの、現実の地域経済は極めて厳しい状況が続いていた。

6.まちづくりの成果、そしてインバウンドの時代へ

2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災など、日本経済にとって災厄の時期が続くなか、別府観光は、世界でも類例をみない地域資源である「温泉」そのものの魅力の発信、日本最大最長ともいえる「路地裏」の魅力の再発見やガイドツアーなどが注目され、ブランドの再構築が行われていた。由布院とはまったく違う歴史や地域文化の掘り起こしも進み、長期にわたる地域の陳腐化を脱しつつあった。
 温泉水そのものの魅力、界隈性の強い路地の魅力については、地域の人々が認知していないことも掘り下げられるほどのディープな魅力を発信することなる。とくに温泉の魅力に惹かれた人々が、2005年以来普及したインターネットで結ばれ、情報発信力が格段に強まることになる。
 また、2001年から始まる「別府八湯温泉道(88湯入ると温泉名人になれるというスタンプラリー)」は、2022年3月に1万人の名人が誕生しており、温泉好きの情報発信力の強さとともに、温泉地別府の凄みを全国に知らしめることになる。

このブランドの再構築時期は比較的安定した時期にみえるが、大きく変化が起こるのは2013年以降である。観光産業の国際化、そして外国人観光客の増加が具体的に打ち出されていく過程で、日本の観光のありようが大きく変化する。外国人客の急増推移は著しく、2014年に1,000万人台、2019年には3,000万人を超えることとなった。
 別府観光に与える影響も大きかった。1990年代以降、韓国人観光客が多い地域だが、とくに東アジアからの観光客が急増していく時代が始まる。2019年の宿泊客数約260万人のうち、約50万人が外国人客、うち7割が東アジアからの観光客となっていた。
 2001年にアジア太平洋立命館大学が創立し、現在、学生数5,000人のうち半数が外国人という状況も幸いし、言葉の問題も難なくクリアできた。宿泊施設や飲食施設での多言語アルバイトは、地域にとって極めて大切な人的資源となった。

7.コロナ禍のなか急増する洋室客室数

2014年以降、明らかに急増する外国人観光客の動向が注目されるようになった。その一方で、2020東京オリンピックでの客室不足が大宣伝されたこと、比較的日本の不動産価格が低位に推移していたことなどから、都市レベルでのホテル建設ラッシュが始まり、ゲストハウス(簡易宿泊所)が急増、さらに民泊制度が成立した。
 地方都市では、新幹線が開通する函館や金沢で異常なホテル進出が進む。このようななか、温泉観光地で注目されたのは別府だった。人口12万人、宿泊客260万人、観光客800万人という温泉観光地としての規模感、安価な土地、東アジアからの近さ(韓国、台湾、上海など)、3時間圏内に空港が3つある(大分空港、福岡空港、北九州空港)立地性など、ホテル投資の地域としては最良の一つとして認識されたのであろう。

このような事情から新規投資に踏み切った宿泊施設は、2018年から23年の間に開業ベースで16施設1,785室(うち県内資本232室)にのぼる。別府の総室数は2001年ごろからほぼ5,000室程度で推移していたことから、After Coronaの時期には供給過剰状態が再来し、再び激しい競争が起こることが予想される。
 新規の約1,800室の採算からみて、必要とされる宿泊人員は約60万人、2019年の別府市の宿泊人員約260万人を約320万人(23%増)まで一気に伸長させないと需給バランスがとれないことになる。2018年までの数理データで進出を決めたホテル群も、集中豪雨的な投資が行われるとは考えてもみなかったことと推察できる。

観光地域は、インフラ整備の状況や立地の評価などが判断基準となり、新たな宿泊施設建設や増築が行われてきた。このため、地域の中長期的盛衰により宿泊客数と客室数のアンバランスが必然的に生じて、安定的な地域経営ができにくい状況におかれている。今後「持続可能な観光地」の視点で地域を考える場合、過去の反省のうえにいくつかの地域指標が必要となるだろう。
 それは、地域の環境負荷規制や観光市街地面積制限などと考えられる。具体的には、客室総数の制限、車輌の市街地乗り入れ制限など管理された観光地域経営となろう。地域に訪れる人々もその住民も満足できる地域を作っていく試みが必要とされている。

8.地域ブランドの再構築と地域経営

これまで見てきたように、観光地は好不況のサイクルに影響を受けやすく、過去に成功体験のある地域がそれを変えていくには、まちづくり系の人材が育ち、地域住民が変化を認知するまで10年程度の時間がかかる。
 変化を求めるまちづくり系人材はほぼ50歳代未満で、変化が必要なことに気が付いている、と経験則でいえる。55歳を超えるころから旧来コミュニティの調整役も兼ねることになり、思い切った行動やイノベーティブな行動をとりにくくなるものだ。

彼らが思い期待する変化の共通点は「地域ブランドの再構築」に他ならない。これは地域そのものが持つ「歴史、文化、自然」を掘り起こすこと、土地のもつ原点の魅力に立ち戻り再構築することだ。仲間やチームを組んで、小集団で「掘り起こし活動」をやってみると、本来おもしろいことだから、仲間がどんどん増えていく。
 まちづくりは「気づくこと」から始まり、人材育成に終わる。人材育成は終わることはないから、まちづくりは終わることがない螺旋を描き続ける。ただ、経済は常に変化し成長と停滞のS字カーブを描く。変化に対応する人材を輩出する地域は強く、そのバトンは引き継がれていくはずだ。

一方で、地域経済を効率よく成長させるための手法も身に付ける必要がある。「地域経営」そのものである。観光地はとくに分かりやすい。観光客数や宿泊客数とその消費単価や満足度で定量化が可能だ。
 わが国では地方創生施策のなかでDMO施策が打ち出され、やっとその端緒が開かれたばかりだ。現在、DMOが地域で組織化され十全に機能しているとは思えないが、ICTの普及でデータを数値化、分析するツールは急増しており、その利用と分析手法が特に観光地域経営に重要な要素となっており、そこから結論づけられた施策や事業が地域の成長を決めることになるものとみられている。

おわりに ~With Corona After Coronaの行方、長期を見据えて~

With Corona/After Corona時代には、2019年以前とは違ったマーケットが生まれる予感がしている。2年以上にわたる「普通の生活」のブランクは、日本人のライフスタイルを変えている可能性が高い。結果、20%の人々の「働き方」が変わるとしたら、日本社会に大きなインパクトを与えていくことになる。
 ワーケーションに代表されるように、時間の使い方そのものが変化することになる。2025年に外国人観光客が2019年並みに戻ることを想定すると、それまでに試行錯誤のチャレンジ期間として、次の時代のマーケットを予見しておく必要があろう。
 また、長期化するウクライナ戦争が世界を民主主義国家と権威主義国家とに二分する可能性もあり、平和を基本とする観光交流の弊害となる恐れも否定できない。とくに東アジア、日本が地政学的にどのように評価されるのか.注視しておく必要がある。

各種国際調査によると、わが国は旅行先としての評価が極めて高く、観光産業のさらなる成長の期待度は高い。将来が予測しづらい環境下ではあるが、長期的にみると日本の観光産業は極めて明るい展望が描けるはずだ。