観光立国推進基本計画に見る観光危機管理
今年3月に公表された「観光立国推進基本計画」では、「持続可能な観光地域づくり戦略」の一環として「旅行者の安全の確保」が位置づけられています。観光危機管理の専門家である当研究所の髙松正人客員研究員が、具体的にどのような取り組みが計画されているのか、観光立国推進基本計画に記載されている項目ごとに、紹介・解説します。
髙松 正人 客員研究員
観光レジリエンス研究所 代表
目次
1.新たな観光立国推進基本計画
政府は、3月に新たな観光立国推進基本計画を閣議決定し公表しました。2017年に決定された前計画後、新型コロナウイルス感染症による観光への甚大な影響とその対応等により、次期計画の策定が先送りされていましたが、コロナ禍の収束と観光の復活への動きの中で決定された計画です。
計画のテーマは「持続可能な形での観光立国の復活に向けて」であり、「単なるコロナ前への復旧ではなく、コロナ前とは少し違った、持続可能な形での復活を図ることが求められる。」としています。計画の序文は、「観光復活への期待感も高い今こそ、持続可能で強靱な観光の実現に向け、変革に踏み出す時である。」と締めくくられています。
なお、本計画の内容全体の解説等については、他の研究者・専門家にお委ねすることとして、本稿では新計画に盛り込まれた「観光の安全・危機管理」について詳しく見てみたいと思います。
2.持続可能な観光地域づくりの一環としての「旅行者の安全の確保」
観光立国推進基本計画の具体的内容である「観光立国の実現に関し、政府が総合的かつ計画的に講ずべき施策」は、本計画における3つのキーワード「持続可能な観光」「消費額拡大」「地方誘客促進」に基づいて構成されています。そのひとつ「持続可能な観光地域づくり戦略」の中に「(10)旅行者の安全の確保」の項が位置づけられています。
2017年に決定された前計画においては、「観光旅行の安全の確保」が「観光旅行の促進のための環境の整備」の一施策として位置づけられていましたが、本計画において「旅行者の安全の確保」が「持続可能な観光地域づくり戦略」に不可欠な要件として明記されたことは、たいへん意味のあることだと思います。
以下では、「(10)旅行者の安全の確保」の項に記載された主な施策のポイントについて私なりの理解を述べていきます。
3.防災情報の提供
「線状降水帯や台風等による大雨、大規模地震・津波、火山噴火が発生した際にも観光旅行者が適時・的確に命を守れる行動が取れる」ように、気象庁が発表する防災気象情報を、市町村、報道機関、観光旅行者等に提供するしくみを高度化する、という趣旨です。本計画では、スーパーコンピューターや次期静止気象衛星などの最新技術の活用などにも触れています。
計画には技術面の記載が目立ちますが、観光の現場においては「観光旅行者が適時・的確に命を守れる行動が取れる」情報提供ができるかどうかが大切なポイントです。たとえば、水害や土砂災害の予測精度が向上し、避難行動ができるタイミングで確実に「水害警戒レベル4」が発出できるようになることは大きな進歩です。
しかしながら、どんなにタイムリーに「〇〇川が増水し氾濫する危険が高まっています。〇〇地区の洪水浸水想定区域に警戒レベル4避難指示を発令しました。洪水浸水想定区域にいる方は全員、避難場所や安全な親戚・知人宅に今すぐ避難してください」とアナウンスがあっても、その地域や今いる施設のことがよくわからない観光客は、どこへどのように避難したらよいかわかりません。今いる建物の上層階に「避難」することが一番安全という場合もあります。
このような状況では、その施設のスタッフや周囲にいる人が、「外に出るとかえって危ないから、この建物の4階に行きましょう」と確実に観光客に指示できるようにしておくことが、「的確に命を守れる行動が取れる」情報提供となるのです。
4.避難体制の強化
この項では、「災害時における道路状況の迅速な把握と道路利用者への災害情報の提供のため、通行可否情報等の集約の強化やSNS等を通した幅広い周知等を推進する。」と、災害時にSNS等を通じて道路交通情報を発信することで、自動車で旅行している観光客の円滑な避難移動を支援することが謳われています。
5.訪日外国人旅行者等の災害被害軽減
ここで目を引くのは、項の冒頭に「持続可能な観光立国を目指すため、政府一体となって総合的な災害対策を推進し、安全・安心の確保に努める」と、政府が「旅行者の安全の確保」に向けて一丸となって取り組み、それが「持続可能な観光立国」に繋がるとしていることです。項のタイトルは「訪日外国人旅行者等の災害被害軽減」ですが、その内容は日本人を含むあらゆる旅行者・観光客を対象とする災害対策が描かれています。
対策としては、多言語による情報発信・情報提供に重きが置かれています。特に訪日外国人旅行者を対象とする情報発信・情報提供として、「日本政府観光局の ウェブサイトやSNSによる周知や災害情報のプッシュ通知が可能な「Safety tips」等のアプリの普及促進、日本政府観光局のコールセンターにおける多言語での問合せ対応」が具体的に挙げられています。
観光庁は、昨年「観光危機管理計画等作成の「手引き」」を作成・公開し、自治体や観光関連事業者の観光危機管理計画づくりを促進していますが、これに関しても次のように記載しています。「災害・危機が発生した際、訪日外国人も含めた旅行者の円滑な避難誘導を実現するため、災害時等の連絡体制、情報収集・発信の枠組み、旅行者の支援体制等を盛り込んだ「観光危機管理計画」について、地方公共団体・観光関連事業者による策定を推進」と従来よりも踏み込んだ表現になっています。
もうひとつ新たに加えられた項目は、空港の事業継続計画(BCP)の策定・実行の促進です。2018年に関西国際空港で高潮による浸水と旅客の滞留が発生、翌2019年には成田空港で陸上交通途絶により1万人を超える航空旅客が滞留するなど、自然災害時の空港における運航管理と旅客対応が問題となりました。それをきっかけに、国は全国95空港に対して「空港BCP(A2-BCP)」を策定し、非常時にはそれを運用して、航空旅客の安全を確保し、全ての滞留者が一定期間、安全・安心に空港内に滞在できる受入体制の構築するよう要請しました。各空港では、A2-BCPが策定されていますが、本計画では災害等発生時に、策定されたBCPが直ちに実行されるような体制の構築や備えを求めています。
6.次の感染症危機への対応
新型コロナウイルス感染症により、旅行者および観光関連事業従事者の感染リスクが懸念されたことを踏まえて、本計画で新たに「次の感染症危機への対応」の項が加えられました。21世紀に入ってから、SARS、新型インフルエンザ、エボラ出血熱、MARSなど世界の観光に大きな影響を及ぼす感染症の発生が見られ、今後も新たな感染症が現れる可能性が高いことから、本計画にこの項を加えたことは評価できます。一方、記載内容は国としての今後の新たな感染症危機への備えに関する記述が中心で、その対象は「国民」となっており、観光分野に特化した感染症への対応が明確に示されているものではないという印象を受けました。
7.公共交通機関の安全対策の推進
従来の計画ではバスや鉄道の安全対策が中心でしたが、本計画では「令和4年4月に 北海道知床において発生した遊覧船事故を受けて」として、旅客船の安全対策についても記述が加えられています。
軽井沢スキーバス事故後に「安全・安心な貸切バスの運行を実現するための総合的な対策」が取りまとめられ、対策が進められていたにもかかわらず、その後も貸切バスや路線バスの事故が後を絶たないことから、「貸切バスの安全・安心な運行の確保」についても具体的に記載されています。
8.旅行業務に関する取引の公正の維持等
本計画で新たに加えられたのが、旅行取引の公正に関する項目です。計画では、「旅行業法に基づき、旅行取引に係る規制の遵守状況に関する立入検査を適時適切に実施することにより、旅行業務に関する取引の公正の維持、旅行の安全の確保及び旅行者の利便の増進を図る。」と記載されています。
なぜ本計画で旅行業務に関して厳しい方針が示されることになったのかは、これに続く次の記述から窺い知ることができます。「特に貸切バスツアーについては、運賃の下限割れ防止対策や旅行業関係団体とバス関係団体により設置された「貸切バスツアー適正取引推進委員会」の仕組みの活用により、旅行における安全確保を図る。」
旅行業者がバス会社に不適切な低運賃や長時間の連続運行を求めてきた結果、乗務員の労務や運行管理等に無理が生じ、バス事故を引き起こす要因となったと考えられています。そのため、旅行業者がバス会社との間で法令にもとづく公正な取引をすることが、バスツアーを利用する旅行者の安全の確保にとって必要であることを明確化したものだと受け止めています。
9.外国人の急訴・相談等への対応体制の強化
この項は、前計画では「日本の良好な治安等を体感できる環境整備」でしたが、本計画では外国人旅行者の個人的な緊急事態や相談に対応することに重点を置き、内容をより具体化しています。特に日本語以外での110番や119番通報への迅速な対応がより具体化され、「119番通報に対して迅速・的確に対応するため、消防指令センターと通訳を交えて三者で通話を行う三者間同時通訳システムが全国の消防本部において導入されるよう促進」することが明記されました。
救急活動における多言語対応も課題となっていることから、「救急隊が外国人傷病者を対応する際、円滑なコミュニケーションと救急活動ができるよう、全国の消防本部に対し、多言語音声翻訳システム「救急ボイストラ」等の導入を促進する。」と記載されています。ちなみに「救急ボイストラ」は今年の1月現在、全国723消防本部のうち683本部で導入されており(導入率94.5%)、国はこれを100%にすることを目ざしています。
10.東日本大震災からの観光復興
前計画では「国際競争力の高い魅力ある観光地域の形成」に位置づけられていた「東北の観光復興」が、本計画では「旅行者の安全の確保」の一項目として位置づけを変えるとともに、タイトルも「東日本大震災からの観光復興」となっています。
これは、「東北6県の外国人延べ宿泊者数を令和2年に150万人泊とする政府目標を1年前倒しの令和元年に上回ることができた」と書かれているように、東北全体の観光復興は目標達成したとの認識に基づくものと考えられます。一方「福島県においては、震災前と比べた外国人延べ宿泊者数の伸び率が、原子力災害による風評の影響等により、東北全体の水準に達しておらず、全国的なインバウンド増加の効果を十分享受できていなかったと考えられる。」ことから、東北全体ではなく福島県(特に浜通り)に観光復興政策の重点をシフトするという意図が読み取れます。
さらに注目すべきは、「東日本大震災の記憶と教訓を後世に残すとともに、防災学習・防災研修の機会を提供する観点や被災地の復興を世界にアピールする」、「各地の震災遺構や伝承館等を含む広域的な観光ルートへの誘客を促進」など、震災の経験を今後の観光コンテンツ化して、前向きに発信していこうという姿勢が今まで以上に表現されていることです。
「(10)旅行者の安全の確保」に記載されている主な項目は以上ですが、計画を読み進めると、それに続く「2.インバウンド回復戦略」(8)インバウンド受入環境の整備の中に、上述の「外国人の急訴・相談等への対応体制の強化」に関わる内容が「外国人患者受入体制の充実」と題して記載されています。外国人旅行者がけがをしたり、体調を崩したりしたときに、国内の医療機関で受診しやすい環境を整えることは、安心できるインバウンドの受入態勢としてたいへん重要なことです。
さらに「(9)アウトバウンド・国際相互交流の促進」には、「日本人海外旅行者の安全対策」についての記載があります。従来の外務省海外安全ホームページの情報や「たびレジ」を通じた安全情報の提供に加えて、現在、観光庁と旅行業団体が協力して進めている「旅行安全情報共有プラットフォーム」の活用についても具体的に触れられていますので、参照してください。
以上、観光立国推進基本計画に記載された観光危機管理や旅行の安全対策等について、概要をご紹介しました。このコラムをお読みの方は、ぜひこれを参考に、できること、優先すべきことから順に、地域や自社の観光危機管理や旅行の安全対策をもう一歩進めていただければ幸いです。
なお、本稿では計画のごく一部しか紹介しておりませんが、本計画はわが国のこれからの観光の方向性を示したものですので、機会があれば以下からダウンロードしてご一読されることをお勧めします。
<参考>
観光庁 観光立国推進基本計画掲載ページ
https://www.mlit.go.jp/common/001299664.pdf