“Tourism×心理学”~フロー理論から考える高付加価値な体験型観光のあり方~
充実した体験を提供するためには、ソフト面での取り組みも欠かせません。アウトドア・アクティビティではどのようなことが「楽しい」と感じられるのか、フロー理論に基づいてその本質を探り、高付加価値な体験型観光のあり方について考察します。
山下 真輝 主席研究員
目次
2024年5月10日に東京ビッグサイトで開催された「第2回iWT国際ウエルネスツーリズムEXPO」の中で、「フロー理論から考えるアウトドア・アクティビティ~ツアーの楽しさとは何か?~」と題したセミナーが開催されました。このセミナーでは、モデレーターを筆者が務め、パネラーにアクティビティリサーチ代表の木村雄志氏、Sup! Sup! 代表の福田大介氏を迎え、シカゴ大学の心理学者M.チクセントミハイが提唱したフロー理論を基に、アウトドア・アクティビティにおけるディスカッションが行われました。本コラムでは、当日のディスカッションの内容を踏まえて、高付加価値な体験型観光のあり方について考察します。
1.「フロー体験」とは?
誰しも我を忘れるほどに、ある特定のことに自分の全意識を集中させ、のめり込んだという経験があると思います。例えば勉強しているとき、スポーツをしているとき、面白い長編小説を読んでいるとき、絵の創作や楽器の演奏などの芸術活動をしているときなど、そういう状態に近い体験をしたことが、何度かはあるはずです。そのような体験は、「フロー体験」と言われるものであり、人が高い集中力を発揮する時というのは、決まってフロー体験の中にあります。
フロー体験については、アメリカのポジティブ心理学研究者 M.チクセントミハイ によって提唱され、著書『フロー体験 喜びの現象学』で詳しく説明されていますが、人が完全に集中し、時間の経過を忘れて夢中になっている心理状態を指す概念です。
フロー体験にある脳の状態は、スポーツ選手での「ゾーンに入る」や武道でも「無我の境地」といった表現でも用いられることがあります。フローとは「流れ」を意味しますが、フロー状態にいる人は、目の前のことに完全に集中し、それ以外のことを考える余裕もなく、するべきことが心地よいペースで次々と進んでいく感覚を味わいます。
フロー体験は、外からの報酬ではなく、活動そのものが楽しく、その活動を行うこと自体が目的となる状態を指します。この状態は、人の潜在能力を最大限に引き出し、深い満足感をもたらします。フロー体験は多くの領域で応用されている重要な概念であり、フローに関する研究論文は1万以上あるとされています。
M.チクセントミハイ によれば、フロー体験の最中にある人には、(1)行動の目標がはっきりとしている(2)フィードバックが即座に手に入る(3)能力と課題とか絶妙な関係にある、という3つの共通点があります。言い換えれば、この3つの状況をつくりだすことは、フロー体験の入口になるということです。これを「フロー・トリガー」と呼んでいます。
観光の分野においても、フロー理論を活用することで、満足度の高いアクティビティやツアーをつくることができます。参加者をフロー状態に導くことで、高付加価値な体験を提供することが可能になるのです。
フロー体験は、M.チクセントミハイによって8つの心理状態に分類されており、これらの分類は個人のスキルレベルと課題の難易度の関係に基づいています。以下に、フロー体験の8つの分類とその特徴を説明します。
- フロー:
スキルレベルと課題の難易度が高いレベルで均衡している状態です。この状態で個人は最も没頭し、最高のパフォーマンスを発揮します。 - 覚醒:
スキルレベルよりも課題の難易度がやや高い状態です。個人は挑戦的な気分を感じ、能力向上の機会を得ます。 - 不安:
スキルレベルに対して課題の難易度が著しく高い状態です。個人はストレスや不安を感じ、パフォーマンスが低下する可能性があります。 - 心配:
スキルレベルが低く、課題の難易度が中程度の状態です。個人は不安を感じつつも、挑戦する意欲を持つ可能性があります。 - 無関心:
スキルレベルと課題の難易度がともに低い状態です。個人は退屈や無気力を感じる可能性があります。 - 退屈:
スキルレベルが課題の難易度を上回っている状態です。個人は退屈を感じ、モチベーションが低下する可能性があります。 - リラックス:
スキルレベルが高く、課題の難易度が中程度の状態です。個人は快適さを感じつつも、十分な挑戦を感じない可能性があります。 - コントロール:
スキルレベルが課題の難易度をやや上回っている状態です。個人は自信を持ちつつ、適度な挑戦を感じることができます。
これらの分類は、フロー状態を中心として、スキルと課題の難易度の関係によって生じる様々な心理状態を表しています。アウトドア・アクティビティやツアー設計において、これらの分類を理解し活用することは非常に重要です。
例えば、SUPツアーの設計では、参加者のスキルレベルに応じてコースを選択し、適度なチャレンジを提供することで、「フロー」や「覚醒」の状態を引き出すことができます。初心者には「リラックス」から始め、徐々に難易度を上げて「フロー」に近づけていくアプローチが効果的です。
一方、ラフティングガイドには、参加者それぞれのフロー状態を正しくコントロールするスキルが求められます。例えば、「不安」や「心配」の状態にある参加者には安心感を与え、「退屈」や「無関心」の状態にある参加者には適度なチャレンジを提供するなど、個々の状態に応じた対応が必要です。
また、アドベンチャーツーリズムを始めとする、昨今の高付加価値ツアーにおいては、特に「質の高いストーリーの提供」が重視されていますが、この場合にも自然解説や歴史解説で知的好奇心に基づくフローを引き出すことができます。参加者の知識レベルに合わせて解説の難易度を調整し、「フロー」や「覚醒」の状態を維持することで、より深い学びと満足感を提供することができます。
ただし、これらの分類は固定的なものではなく、個人の状態や環境によって常に変化する可能性があることに注意が必要です。従って、ガイドや指導者は参加者の状態を常に観察し、適切に対応することが求められます。
以上のように、フロー体験の8つの分類を理解し活用することで、より効果的なアクティビティやツアーの設計が可能となり、参加者の満足度と体験の質を大きく向上させることができます。
2.アウトドア・アクティビティとフロー理論の関係
アウトドア・アクティビティとフロー理論には密接な関係があり、この理論を活用することで、参加者により充実した体験を提供できる可能性が高まります。フロー理論の核心は、個人のスキルレベルと直面する課題の難易度のバランスによって、脳内の意識を特定のものに集中させる、あるいは脳の思考能力を特定の物事を考えることに占有させる点にあります。アウトドア・アクティビティ、特にラフティングやSUPなどの水上スポーツは、この理論を適用しやすい環境を備えています。
アウトドア・アクティビティを提供するガイドに求められる究極のスキルは、「顧客それぞれがもっているフローの状態を正しくコントロールできること」ではないかと思います。これには以下の要素が含まれます。
- 顧客ごとのフロー状態の把握
- フロー状態に合わせた難易度設定
- 子供の場合、子供のフロー状態と親の期待(子供が楽しんでいる姿を見たいなど)の両方を理解すること
これらを実現するためには、例えばラフティングにおいては単に川を下るだけでなく、どのように下るかを常に考え、適切な環境を作り出す操船技術が必要となります。フロー状態に入ると、参加者は自我を忘れ、時間感覚が歪む体験をします。アウトドア・アクティビティでこの状態を引き出すことで、参加者は「ああ、楽しかった」という深い満足感を得ることができるのです。
しかし、フロー理論の適用だけでは十分ではありません。衛生面(清潔なトイレ、臭くないウェットスーツなど)や、ツアー開始前に参加者同士の交流を促進する「場」の設定など、総合的なアプローチが、フロー体験へと導いていくのです。参加者のスキルレベルに合わせてコースが選択でき、適度なチャレンジを取り入れることで、フロー状態を引き出す工夫を行っているアクティビティ会社もあります。
アウトドア・アクティビティにフロー理論を適用する利点は、参加者の満足度向上だけでなく、アクティビティ自体の高付加価値化にもつながる点にあります。適切にデザインされたアクティビティは、参加者に深い没入感と達成感をもたらし、結果として高い評価と再訪意欲を生み出す可能性があります。
ただし、フロー理論の適用には注意も必要です。参加者個々のスキルレベルや心理状態を正確に把握し、それに応じた体験を提供することが求められます。また、安全面への配慮も忘れてはなりません。フロー状態に没入するあまり、危険を軽視することがないよう、適切なバランスを取ることが重要です。
このように、アウトドア・アクティビティとフロー理論の関係は、参加者の体験の質を高め、アクティビティの価値を向上させる可能性を秘めています。しかし、その実践にはアクティビティを提供する側の細心の注意と高度なスキルが必要となることも認識しておく必要があります。
3.フローの阻害要因(フローブロッカー)の影響
参加者がフロー状態に入れるようにするためには、意識の集中を妨害する要因を除去する必要があります。アクティビティリサーチ代表の木村雄志氏が仮説を提唱したフローの阻害要因(フローブロッカー)として考えられるものには、以下のようなものがあります。
まず、身体現象です。寒さや暑さ、トイレの問題などが体験の妨げになります。また、目的を達成できない要因も阻害要因となります。例えば、パートナーが怒り始めたり、(天候などの理由で)見たいものが見れなかったりすることです。さらに、思ったよりも疲れてしまうことや、虫やマムシなどの有害生物に対する警戒、女性のお化粧問題も考慮する必要があります(特にアウトドア活動では、メイク崩れが気になることがあります)。知的フローにおいては、言語の障壁も重要です。言葉が通じないことによるストレスは、体験の質を低下させるとともに、脳内でインプットされた情報を処理し、自らの経験と合わせて思考することができないため、フロー状態に入ることはできません。アドベンチャーツーリズムを始めとする、英語圏向けツアーで、言語が大きな問題になるのは、フロー理論をベースとしても説明することができます。最後に、スマートフォンやスマートウォッチなどのポップアップ通知などが意識の集中を妨げることがあります。
これらの要因を事前に予測し、適切な対策を講じることで、参加者がフロー状態に入りやすくなり、満足度の高い体験を提供することができます。例えば以下のような工夫が可能です。
- 電子機器などの注意散漫要素への対応:
アクティビティの間、参加者にはスマートフォンを持つのをやめてもらい、ガイドやスタッフが写真を撮りツアー終了後に提供することを伝えることで、アクティビティに集中してもらう。 - 身体的不安要素への対応:
身に着けるライフジャケットやギアの手入れを入念に行い衛生面に配慮することや、トイレのタイミングなど事前に伝えて不安を解消することで、安心してアクティビティに集中してもらう。 - 体力やスキルへの不安要素への対応:
参加者のスキルレベルに合わせてアクティビティの強度を調整することで、安心してアクティビティに参加してもらうことができ、フロー状態にはいりやすくなります。
これらの阻害要因とフロー状態には負の相関関係があり、阻害要因が強くなるほどフロー状態に入ることが難しくなるため、これらの阻害要因を適切に管理することで、フロー状態を促進することができます。アクティビティやツアーにおいても、以下のような工夫をすることで、フロー体験につながります。
- 適切な難易度設定:
個人のスキルレベルに合わせてアクティビティ強度を上げるなど、課題の難易度を調整することで、フロー状態に入りやすくなります。 - 集中できる環境の整備:
参加する際に、騒音や注意散漫要素を排除(スマートフォン不携帯等)し、アクティビティに集中しやすい環境を作ることで、フロー状態を促進できます。 - 明確な目標設定:
「川をどこまで下る」「どこまで歩く」など、活動の目的を明確にすることで、活動への没頭を促進できます。
フロー状態と阻害要因の相関関係を理解し、適切に管理することは、特にアウトドア・アクティビティのようなツアー設計において重要です。例えば、ラフティングガイドには、参加者それぞれのフロー状態を正しくコントロールするスキルが求められます。これには、参加者の内的状態(不安、自信など)を把握し、外的環境(難易度、安全性など)を適切に調整する能力が含まれます。
4.フロー理論を活用したツアー設計の実例
フロー理論を活用したツアー設計では、参加者のスキルレベルとアクティビティの難易度のバランスを適切に調整することが重要です。具体的な実例として、SUPツアーの設計が挙げられます。Sup! Sup! の代表である福田大介氏は、参加者の能力に合わせてコースを選択し、チャレンジングな要素を適度に取り入れることで、フロー状態を引き出す工夫をしています。例えば、初心者向けのツアーでは、穏やかな水面で基本的なパドリング技術を習得させた後、少し波のある海域に挑戦させるなど、段階的に難易度を上げていきます。これにより、参加者は自身のスキル向上を実感しながら、適度な挑戦を楽しむことができるのです。一方、経験者向けのツアーでは、より高度な技術を要する海域や長距離のコースを設定し、参加者の能力を最大限に引き出すような設計がなされています。このような難易度の調整により、参加者は自身の能力と挑戦のバランスが取れた状態で活動に没頭し、フロー状態を体験しやすくなります。
フロー状態を促すツアー設計においては、参加者の個別ニーズに応じたカスタマイズも重要です。例えば、家族連れの場合は子供と大人それぞれのスキルレベルに合わせたアクティビティを組み合わせるなど、きめ細かな配慮が必要となります。また、フロー状態に入ると時間が早く感じられる傾向がありますので、ガイドはこの点を意識してツアーの進行をコントロールすることが重要となります。
これらの実例から、フロー理論を活用したツアー設計には、参加者の能力評価、適切な難易度設定、段階的なチャレンジの提供、時間管理、そして個別ニーズへの対応が重要な要素であるといえます。これらの要素を適切に組み合わせることで、参加者により深い没入感と高い満足度のある高付加価値な体験を提供することが可能となります。
5.フロー体験と推奨意向
フロー体験とツアーの推奨意向には密接な関係があり、フロー状態を経験した参加者はツアーに対してより高い満足度を示し、他者への推奨意向が高まる傾向があります。
フロー体験の特徴である「高度な集中」「自意識の消失」「時間感覚の歪み」などは、ツアー参加者に深い没入感と満足感をもたらします。この満足感は、ツアー終了後も持続し、参加者の記憶に強く残る傾向があります。結果として、フロー体験を得られたツアーは、参加者から高い評価を受け、友人や家族への推奨につながりやすいのです。
アクティビティリサーチ代表の木村雄志氏は、「アウトドア・アクティビティにおいてフロー状態を引き出すことで、参加者は『ああ、楽しかった』という深い満足感を得ることができ、この満足感は、単なる一時的な楽しさを超えた、より本質的な体験の質を反映している。そのため、フロー体験を得られたツアーは、参加者の心に強く残り、口コミやSNSでの共有を通じて、他者への推奨につながりやすい。」との考察をしています。木村氏の調査によるとフロー体験を感じた人ほど推奨意向(NPS:Net Promoter Score)が高まりやすい傾向があることが分かります。フロー状態に入ることで、参加者は自身の能力を最大限に発揮し、通常では味わえない達成感を得ることができ、この達成感が、ツアーの価値を高め、再訪意欲や他者への推奨意向を強化する要因となるのです。
福田大介氏のSUPツアーの例では、参加者のスキルレベルに合わせてコースを選択し、適度なチャレンジを取り入れることで、フロー状態を引き出す工夫がなされていますが、このようなきめ細かな配慮は、参加者の満足度を高め、結果として高い推奨意向につながっています。
フロー体験は「自己目的的」な性質を持つため、参加者は活動そのものから内発的な喜びを得ていきます。この内発的な動機づけは、外的な報酬よりも強力な満足感をもたらし、ツアーの価値を本質的に高める効果があります。その結果、参加者は自身の体験を積極的に他者と共有したいと感じ、高い推奨意向につながるのです。
以上のように、フロー体験を適切に提供することで、ツアーの価値を高め、参加者の満足度と推奨意向を向上させることができます。これは、アウトドア・アクティビティに限らず、様々な種類のツアーやイベントにも応用可能な重要な知見となります。
6.まとめ
フロー理論はアウトドア・アクティビティやツアー設計において重要な役割を果たし、参加者の満足度と体験の質を大きく向上させる可能性があることが明らかになりました。またアウトドア・アクティビティのみならず、知的好奇心を充足させるストーリーによるツアーや街歩き、歴史・文化ガイドのツアーの質も、フロー理論でその満足度や質を説明できる可能性が示されました。ここから見えてきたのは、昨今語られている「高付加価値な体験」をどうつくるかのヒントです。フロー体験に導かれた参加者は、時間感覚が変化し、ツアーがあっという間に終わったように感じるだけでなく、その体験を他者に強く推奨する意向を持つため、新規顧客の開拓にも寄与します。これにより、安定的な事業運営にもつながることが期待されます。さらに、フロー体験は参加者の幸福感や満足感を大きく向上させるため、リピーターの増加も見込まれます。このような高付加価値な体験を提供することは、観光業界全体の競争力を高め、日本のツーリズムの発展に貢献する大きな一歩となるでしょう。今後もフロー理論を深め、観光業界における新たな価値創造に取り組んでいきたいと考えています。