観光事業者の事業継続計画策定の現状と課題
観光事業者が直面する災害や危機に対する備えと対応策について、最新の調査結果と具体的な事例を交えて解説。事業継続計画(BCP)の重要性とその策定方法を学び、観光業界のレジリエンスを高めるためのヒントを提供します。
髙松 正人 客員研究員
観光レジリエンス研究所 代表
目次
はじめに
観光客の動きが急速に回復し、国内の主要観光地は、国内外からの観光客で大いに賑わっています。その一方で、台風や大雨など気象災害の増加と激甚化、大地震・津波、火山活動等の発生可能性の高まりによって、観光客・旅行者と観光産業や観光地が災害により影響を受けるリスクも高くなってきています。
この10年余りを振り返っても、2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震、国内各地で発生した大規模水害、今年の元日に発生した能登半島地震など、自然災害が起きるたびに観光事業者は大きな被害や経済的影響を受け、経営破綻の危機に見舞われてきました。自然災害だけでなく、新型コロナウイルス感染症の拡大時には、緊急事態宣言に伴う旅行・移動の制限、感染防止のための旅行控え、国境閉鎖による訪日外国人観光客の激減などにより、観光業界は長期間にわたり大きな経済的な影響を受けました。
内閣府の「令和5年度企業の事業継続及び防災の取組に関する実態調査」(*1)(以下、「内閣府BCP調査」)でも、調査対象の「宿泊・飲食サービス業」のうち42%が、「東日本大震災以降、日本で発生した地震や水害などの自然災害により実際に事業の継続に影響を受けた」と回答しています。
こうした災害・危機リスクに対して観光事業者はどのように備えたらよいのでしょうか?
1. 災害・危機による観光事業者への影響
災害や危機が発生すると、旅行者・観光客だけでなく、観光事業者にも深刻な影響が及びます。建物や施設の被害、営業に必要な備品の損壊等が発生します。地震で揺れの大きかった地域の飲食店や宿泊施設では、たとえ建物の被害が軽微でも、多くの食器が落ちて割れたり傷ついたりして、料理の提供に支障が出ることがあります。災害で長時間の停電が発生すると、施設内の照明や空調、エレベーター等が使えず、館内での滞在は不快で不便なものになります。浴場のボイラーや給湯用のポンプも止まり、入浴サービスも提供できなくなります。こうした状況では通常営業の継続は困難で、休業せざるを得ません。営業を再開しても、「被災地」にある観光施設では予約のキャンセルや利用者の激減により、売上の低迷が続いて財務状況の悪化が避けられません。
災害そのものによる被害や影響に加えて、「風評」による被害や影響が生じます。風評被害とは、災害や危機の情報に接した人が、被災地からの報道やインターネット上の情報などを見て、被害や影響が実際よりも大きいと思い込み、予定していた旅行を中止したり行先を変えたりすることで、観光事業者に生じる経済的な損失です。また、災害発生地周辺の観光地において、実際には被害や影響が発生していないにもかかわらず、旅行者が「同じ地域だから」という理由でそこへの旅行を避けることで、来訪客が減り経済的な影響が生じることも風評被害です。
2. 災害・危機への観光事業者の対応
災害・危機による被害や影響が出たとき、事業継続・観光復興に向けて観光事業者が取るべき主な対応は、情報発信、財務面の危機対応、雇用の維持です。
まず情報発信です。
風評被害を未然に防ぎ、影響の拡大を抑制するために最も重要な対応は、現地の状況について正確な情報を災害直後からタイムリーに発信することです。災害や危機の状況が落ち着き、観光客を安全に迎え入れることができるようになっても、なかなか観光客は戻ってきません。災害発生時は、各メディアが競って現地の状況を取材し報道しますが、復興フェーズになるとメディアを通じた情報発信は少なくなるからです。人々は災害発生時の報道の印象をその後も引きずっているうえに、心理的な遠慮もあって、災害・危機の「被災地」となった観光地を避けようとします。ここでも地域からの積極的な情報発信が必要です。「当地はほぼ通常の状態に戻っており、現在、観光客の皆さんは、観光を楽しんでいる」ことを、画像や動画とともに発信することで、それを見た人々に「もうあそこに行ってもだいじょうぶ」と認識させます。
災害・危機で混乱している状況で、適切で効果的な情報提供・情報発信をタイムリーに行うことは簡単ではありません。災害・危機が発生する前に準備をしておくことで、危機後の混乱のなかでも適切な情報内容を適切な方法で発信することができます。
次に考えなければいけないのは、財務面の危機対応です。
危機後の大量の予約キャンセルや休業のために売り上げが大きく減った状態が続くと、もともと財務基盤がぜい弱な観光事業者は、たちまち運転資金の不足に陥ります。災害で被害を受けた建物設備を修復したり、壊れた備品を買い替えたり、となると、さらにまとまった資金が必要になります。そうなってから慌てて金融機関に駆け込んでも、すぐに必要な資金が調達できるとは限りません。平常時から緊急対応のための資金をプールしておく、取引金融機関と緊急融資について話し合っておく、利益補償を含め損害保険の内容を再確認しておくなどにより、災害等による経営危機のリスク対応に備え、事業継続をより確実にしておくことが必要です。
危機後の雇用維持も課題です。
災害・危機で経営状況が悪化すると、経営者が真っ先に考えるのは最大の経費である人件費の削減です。賞与の減額・不支給、非正規従業員のシフト削減や契約打ち切り、最後には正社員の雇用調整まで考えざるを得ない事態もありえます。しかし、あらゆる業種で人手不足が深刻になっている状況では、いったん会社を離れ、他の地域に引っ越したり、他の企業に転職したりした従業員は、営業を再開しても元の会社に戻ってきません。そうなると今度は、人が足りなくて元通りの営業ができないという危機に直面します。そうしたことを予め想定して、万一、災害等による長期休業や、売上が長く低迷した場合にも、その間、従業員を他の事業部門や他社に転配、出向させるなどして、雇用契約を維持し、営業再開時にもう一度元の職場で活躍できるような対応を準備しておくことは、労務面での危機管理となります。
3. 観光事業者の災害・危機への備え
このように災害などの危機に対して脆弱な観光事業者は、非常時の事業継続や災害・危機後の事業の回復に向けて備えておくことが大切です。しかし観光事業者の危機への備えは、必ずしも十分でないのが実態のようです。内閣府の「企業の事業継続及び防災の取組に関する実態調査」の結果をみると、「宿泊業・飲食サービス業」の事業継続計画(BCP)策定率は、この数年間増加傾向にあるものの、それでも27.2%と調査対象業種の中では最も低い結果となっています。(図1)
BCPを策定済みの観光事業者にとって「事業継続計画(BCP)を策定(予定)した最も大きなきっかけ」は、「リスクマネジメントの一環として」(27.8%)、「親会社・グループ会社の要請」(21.5%)、「過去の災害、事故の経験」(21.0%)であり、他業種に比べると「過去の災害、事故の経験」をきっかけにBCPを策定した割合が大きくなっています。
調査対象の企業のうち、5.4%はBCPを策定中、36.4%は「策定を予定している(検討中を含む)」と回答している一方、17.9%が「策定する予定はない」、13%は「事業継続計画(BCP)とは何かを知らなかった」と回答しました。(図2)なお、BCPを知らなかった企業の割合は、調査対象の全業種の中で最大でした。
策定する予定がないと回答した観光事業者にその理由を尋ねると、「策定する人材が確保できない」、「策定に必要なスキル・ノウハウがない」を筆頭に、「親会社・グループ会社の要請がない」、「法令等による規定・規制がない」などが上位を占めました。(図3)上位3つの理由は、全調査対象の平均を大きく上回っています。策定ノウハウや人材がないのでBCPを策定する予定がない、できないという現状を浮き彫りにしています。また「親会社・グループ会社の要請」は、BCP策定の大きなきっかけでもあることから、親会社等に要請されれば策定するが、要請されなければあえて策定しない、という、一部観光事業者の防災・危機管理に対する主体性の不足を感じさせます。
4. 観光事業者BCP策定のための支援
これまで見てきたように、観光事業者がBCPを策定しない、できない大きな要因は、BCPを策定できる人材が確保できないことと、BCP策定のスキルやノウハウがないことです。
その問題の解決の一助となりうるのが、日本商工会議所・日本観光振興協会(日観振)が共同で開発した「観光BCP作成ガイド」(*2)です。従来、BCP策定のツールとして広く使われてきたのは、中小企業庁の事業継続計画モデルですが、もともと製造業や流通業を基本にモデルが作られているためか、観光事業者がこのモデルを使ってBCPを作ろうとすると、かなり苦労します。そうした状況を認識した日本商工会議所と日観振が、観光分野のBCP策定率を引き上げることを目標に、観光事業者が使いやすいツールを開発して提供したものです。
「観光BCP作成ガイド」の特徴は、宿泊、観光施設、飲食(企業向け/小規模企業・個人事業主向け)、交通(タクシー/国内船社/貸切バス/鉄道)の4業種の事業実態に応じて、災害・危機時の事業継続のための内容を自社内で検討し、検討結果がそのままBCPの素案になることです。作成ガイドにはBCP作成のプロセスに従って質問・検討項目が列挙されていて、それらについて検討した結果をワークシートに書き込む形式となっています。作成ガイドには、検討の際の参考となるように「記入例」が各業種別に用意されています。
この他にも、JTB協定旅館ホテル連盟が会員向けに作成した「トラブル対応マニュアル」の経営者編では、自然災害だけでなく宿泊施設で起こりうるさまざまな危機・トラブル発生時において経営者・管理者が判断・対応すべきことを具体的に記載されています。同連盟の会員事業者が自社のBCPを検討する際には、このマニュアルが参考になります。
さらに観光庁は、災害等が発生した際の観光事業者危機管理対応を検討するためのツールとして「観光危機管理計画等作成の「手引き」」(事業者向け)を公表しています。(*3)
このように、社内に専門人材がいなくても、スキル・ノウハウが不足していても、事業継続計画を作成するためのツールを活用すれば、BCPの検討・策定は可能です。
そして何よりも重要なことは、社内でBCPを検討・策定するプロセスそのものが、その会社の事業継続力を強化することにつながることです。コンサルタントが作ったような、整った、見栄えの良い事業継続計画でなくても、社内のさまざまな役割の従業員が経験と知恵を集めて検討した計画こそ、いざというときの事業の継続と従業員の雇用確保に役立つのです。
*1 内閣府「令和5年度企業の事業継続及び防災の取組に関する実態調査」
https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kigyou/pdf/chosa_240424.pdf
*2 「観光BCP作成ガイド」報道資料(日本観光振興協会)
https://www.nihon-kankou.or.jp/home/userfiles/files/autoupload/2022/08/1661749210.pdf
「観光BCP作成ガイド」申し込みフォーム
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSehcgDQlJ4sHdaabx1cOMULILy_lMmAlRJCYfoZmyy962TYBQ/viewform
*3 観光庁「観光危機管理計画等作成の「手引き」」(2022年3月)
https://www.mlit.go.jp/kankocho/topics08_000202.html