“Tourism×宇宙物理学” 旅するということ
宇宙創生にかかわる“ゆらぎ”理論の第一人者である佐治晴夫先生が考える、旅の根源的な価値とは?
佐治 晴夫 北海道美宙(MISORA)天文台名誉台長、鈴鹿短期大学名誉学長、大阪音楽大学客員教授
目次
「旅」という言葉を聞くたびに、いつも思い出すことがあります。今、地球を旅立ってから、最も遠いところまで、二度と戻ることのない旅を続けている人類の歴史はじまって以来の人工物体のことです。それは、今から48年前の1977年、アメリカ航空宇宙局NASAが打ち上げた太陽系・外惑星探査機、ボイジャー1号です。ボイジャーは、私たちが、直接、行けないような遠い宇宙に、私たち地球人類の目として、そして耳として旅立った太陽系外惑星探査機です。2025年1月現在の位置は、地球からおよそ、248億キロメートル、光の速さで走っても23時間8分もかかる遥か彼方です。この壮大な距離を直感的に理解するために、今、太陽を直径1メートルのバランスボールだと仮定すれば、地球は、そこから100メートル離れたところにある大きさ1センチメートルのパチンコ玉です。太陽系の一番外側をまわっている惑星、海王星は、3キロメートル先にあるサクランボです。そして、ボイジャー1号は、17キロメートル先にあるインフルエンザウィルスの10分の1です。ボイジャー1号は、ここまでの道中に、人類がまったく予見できなかった数多くの発見をして、今なお、時速6万キロメートルというすさまじいスピードで飛び続けています。地球からみると、「へびつかい座」の方向です。しかも、現在でも、地球とは、電波でつながっていて、カメラは故障してしまったので、もう目は見えなくなっていますが、耳は生きていて、今、この瞬間も、漆黒の宇宙空間を旅しながら、周囲から聞こえてくる星風の音を、地球に送り続けています。
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ボイジャー1号が太陽系の新領域を探査している様子
(Courtesy NASA/JPL-Caltech)
そして、よく知られているように、その本体の側面には、地球の情報を記録したゴールデンレコードを抱えています。このレコードは、LPレコードとまったく同じサイズの銅板で表面には金メッキが施されており、打ち上げ当時のアメリカ合衆国第39代大統領、ジミー・カーター氏のメッセージ:“これは小さな、遠い星からのプレセントです。我々の音、科学、画像、音楽、考え、感じ方を表したものです・・(中略)・・今、われわれが直面している問題を解決した暁には、あなたたち銀河系人の仲間いりできることを希望しています”という内容の音声が収録されています。そのほかに、地球上の55種類の言語での挨拶、その23番目には“こんにちは、お元気ですか”という日本語による挨拶、さらに、民族音楽を含む世界の音楽32曲、その中の3曲が、バッハの作品です。これは、バッハの音楽のなかに潜む数学性が、もし、銀河系内に存在する地球外知的生命(つまりET)と遭遇した場合、宇宙の共通言語として機能するかもしれないという思いから搭載されたもので、その一部は、私の提案でもありました。
さらに、そのレコードカバーの表面には、再生方法が数学的な図解で示されており、銀河系内の地球の位置を示す図形が刻まれています。それらに加えて、カバーの表面には、半減期がおよそ45億年のウラニウム238が塗布されていて、このレコードの拾得者が、レコードの作成年代を残留放射線量から推測できるように工夫されています。つまり、このゴールデンレコードとは、地球文明の遺書であり、そのタイムカプセルとして、向こう45億年を想定して送り出されたものだったのです。というのも、その頃には、膨張する太陽に地球は呑み込まれているでしょうから、地球の痕跡は、跡形もなく銀河系から消えているでしょう。そのとき、このレコードが、どこかの地球外知的文明に拾われていれば、彼らの想像力の中で、地球そして私たちは再び、蘇ることになるのでしょう。まさに、終わりのないこの旅こそが、究極の旅のような気がします。
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ボイジャー1号にゴールデンレコードのカバーを固定している様子
(Courtesy NASA/JPL-Caltech)
日常における旅とは
さて、私たちの日常においての旅とは何でしょうか。実は、私たち生物の進化の歴史をたどってみると、同じ場所に留まっていては、生きながらえていけないように設計されています。それは、生命そのものが、空気や食料の摂取などをふくめた環境との相互作用がなければ、誕生しえなかったからでしょう。生命とは、それ自身だけで生存し続けることはできない存在なのです。しかも、生物が生息する環境は常に変化していますから、生物は、その環境に順応するように自らを変えていかなければ生き続けることができません。
その一方では、私たちのように「心」をもつ生き物は、環境に慣れ親しんでしまうことが、環境変化を察知する能力を欠如に向かわせますから、種としての進化のさまたげになることもあります。つまり、感覚をもつおおかたの生物は、外界の状態を、外界の変化として感知するように設計されています。しかしながら、私たちが普段経験しているように、同じ香りの中に包まれていれば、いつしか感じなくなります。これは生きるためには、環境に順応しなければならないからです。その一方で、異なった香りがすれば、それを感知することができます。
それは、もし、その香りが、生命維持に危険なものが発する香りであれば、即刻、避けねばなりません。今年の干支にちなんでヘビの話をすれば、ヘビが舌をペロペロだしているのは、赤外線の変化を検出しようとしているためです。体温を持っている獲物から常に赤外線が放出されていますが、その獲物が動くと、そこから発せられる赤外線の強度が変わり、その変化から獲物の位置を確認しているのだそうです。したがって、毒蛇と遭遇したときには、動かずにじっとしていることが肝要だと言われています。
このように、生物が成長し、生き抜くためには、環境への順応と、さらに新しい環境への敏感な反応、それによって、新しい智慧を獲得し、自己を変えていくことで、生存能力が強化されることになります。話はとびますが、ニホンウナギは、長い旅をすることで有名な魚です。日本近海で獲れるといっても、産卵場所は、日本から3000キロメートル以上も離れた西マリアナの海域だそうです。養殖ウナギとは異なる味は、旅することから生まれるようです。
ところで、私たち人間にとっても、時折、環境をかえることで体も心もリフレッシュできるのは、長い生物の進化から形成された特性なのでしょう。そこに旅の原点があると考えてはいかがでしょうか。家の外に出ないでも、部屋の中の家具の配置を変えるだけでも、気持ちが変わるように、人間は、環境に敏感です。つまり、人間の気持ちや、ものの見方といったような情動や感受性は、環境に大きな影響を受けます。それは、旅にでることが、新しい自分の再認識につながることにもなり、これまで未知だったことを知ることによって、視野が大きく広がっていくことにもなるでしょう。視野をひろげるのは、読書などでも可能です。しかし、旅することで出会うものには、身体感覚が伴います。自分の身体をその環境におき、自分の目で見て、耳で聞いて、身体そのもので味わうことによる体験です。といっても、国外旅行のような大きな旅ばかりが意味をもつものではありません。いつもバスで通りすぎていく通勤路であっても、たまに歩いてみると、道端のコンクリートの割れ目から外を覗いている小さな花とか、いつもは見逃していたような面白い看板にであうこともあります。あるいは、少しだけ電車に乗って、海の見える小さなカフェで楽しむ一杯の紅茶から元気をもらうこともあるでしょう。これも小さな旅の効用です。
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心の内側に向かう旅とは
ところで、旅は、外にでていくことだけが旅ではありません。もうひとつ、心の内側に向かっての旅も必要です。それは、好きなことと向き合う時間の中で体験できる心の旅です。日々のあわただしさのなかで、ほんのひととき、心の旅にでることが、あたらしい自分との出会いにつながり、元気がわいてきます。外と内に向かう旅にでることが、豊かな人生への第一歩になります。旅にでて、遠くを見ることは、一番近くにいる自分を知ることだといっても言い過ぎではないでしょう。
さて、本稿をしめくくるにあたり、江戸時代前期の俳人、松尾芭蕉のことに、ふれておきたいと思います。芭蕉は、よく知られている通り、代表作「奥の細道」の冒頭で、“月日は百代の過客にして、行きかふ年も旅人なり”、言い換えれば、“月日は永遠にとどまることのない旅人であって、やってきてはすぎさる年も旅人である”と吟じています。広大無辺な天地に比べて、人生という有限な存在を旅になぞらえ、天地の悠久な時間、空間と自分の存在を重ね合わせようとしています。「旅行」が、起点と終点をもつ限られた時間であるとすれば、「旅」は、終わることのない永遠への憧れが含まれているような気がします。その芭蕉が人生の最後に詠んだとされる一句があります。元禄七年十月八日、死の四日前に詠んだとされていて、芭蕉の辞世の句とも言われてきた作品です。
“旅に病んで夢は枯野をかけ巡る”
句の成立周辺のことについては、弟子の支考が書いた『芭蕉翁追善之日記』に詳しく記されていますが、この句につけられている「病中吟」という前書きが気になります。私は、文学研究者でもないので、ここで、論考を進めることには躊躇もありますが、もし、辞世の句であったら、そういった前書きは、つけなかったのではないでしょうか。だからといって、後で、弟子の誰かがつけたにしては、さきの文献から想像できる最後の状況、すなわち、芭蕉が弟子とともに、推敲を重ねている場面が記録されていることから考えて、やはり不自然さが残ります。ということは、芭蕉自身、意識もはっきりしていたということになります。そこで、私は考えます。たしかに死に近い病床で詠まれてはいますが、芭蕉自身は、辞世句と考えてはいなかったのでは、とそんな気がしてきます。芭蕉は、いつか、病が癒えて、旅にでたいと強く願っていたのではないでしょうか。生きるとは、自分自身の旅の暦を編むことであって、それは、本人の心の中で静かにしかも永遠に燃えつづける希望の灯なのかもしれません。