連載
「線」と出会う旅への視点
「便利・ある」の現代で、「不便・ない」世界の旅体験はどのようにつくられるのか。
今回の新しい連載は、旅行者の日常と非日常の間にある「線」に着目し、「旅」への捉え方や視点を考える企画です。第1回で取り上げるのは、物理的な場所、食材、道具、人のコミュニティ、そして時代など、日常との間に存在する複数の「線」を越える体験を提供している旅する料理人。そこから「線」を越える旅の価値や作り方、体験提供のスタイルを考えます。
「線」と出会う旅への視点
技術の発展とともに、移動する必要性が減少しつつある現代。不要不急であり、お金と時間が必要な旅が、現代人に生きる上で提供できる価値、果たせる役割は何でしょうか。
一般的に旅の定義は「住む土地を離れて、一時他の土地に行くこと」。古くは必ずしも遠い土地に行くことに限らず、居住を離れることすべてを「たび」と呼んでいたとの説もあります。
「旅」の定義を、日常から離れ、旅行者の日常と非日常の間にある「線」を意識すること、または近づくこと、越えることとした場合、旅先の「線」には、例えば国境のような客観的に定義されているものや、山の反対側、川の対岸など、わかりやすく認識できるものが浮かびます。一方で、人の生活や価値観、新しい感覚、知らなかった自分の一面に気づくことなど、旅行者自身の日常との差分によって主観的に「線」になり得るものもあります。
本企画は変化の激しい時代の中で、旅をつくることに関わる方々が、少し実務から距離を置き、改めて「旅」について考え、捉え方や視点を増やす機会なればと考えました。旅行者が旅先でどのような「線」と出会い、どう関わるかに視点をおいた事例を紹介することで、関わる地域や事業における「旅」への可能性が広がることを願っています。
そのスタイルは、その土地にあるものを、その場にある道具で、その時居合わせた人たちと作り、味わう旅。単に料理を食べることではなく、「おいしい」というすべての人に共通する嬉しさを通じて、その先にある「生きること」につながる感覚に、参加者が気づけるような場となっている。
Profile 三上奈緒 さん
東京農業大学卒。「顔の見える食卓作り」をテーマに、食を通じて全国各地の風土や生産者の魅力を繋ぐ。食卓から未来を想像する学び場 Around the fireや、縄文から原点を学ぶ、縄文倶楽部を主宰。Edible schoolyard japanのchef teacherをはじめ、子どもたちの食教育も行う。 海に山に川に、料理のフィールドはどこへでも。石を組み、木でアーチを組み、焚き火で料理する、プリミティブな野外キッチンを作り上げる。
その日、その土地、そこにいる人たちと、つくる料理を共に囲む
三上奈緒さんは、自らを「旅する料理人」と名乗り、活動している料理人である。彼女のHPやSNSを見ると、彼女はキッチンではなく畑の中にいたり、イノシシをつるして直火で炙っていたり、とんでもなく大きなパエリア鍋を焚火で調理していたり、料理をしている場所の大半が太陽のまぶしい青空の下の写真だったりする。
彼女は店や特定の場所をもたず、事前にメニューも決めず、機会のある土地に赴き、出会った食材で料理をする。料理する場所は平原、森の中、海岸、河原など、どんな場所でも彼女はそこにある石や木で野外キッチンをつくり上げる。場所の選び方も、事前に十分な情報を収集して計画するというより、農家や漁師、猟師など、出会った人たちとの縁を紡ぎながら、呼ばれたところにピンときたら動き、できる料理を考えるスタイル。まさに「旅する料理人」である。その旅先で、子供たちの食育から、大人たちへの焚火を通じた内省まで、様々な気づきを提供している。
今のスタイルに至った理由を聞くと彼女は笑顔でこう答えた、「東京にいて、誰が育てたかわからないものを食べていることに疑問をもっていた。農家さんに出会い、畑に行って、その場で野菜をかじるとシンプルに、おいしい。だからこそ、一方的ではなく相互的な“顔が見える”食卓を大切にしたいと思っていた。その時、その土地でとれる最もおいしい自然の恵みを、みなで作り、共に食べたい、と思ったら現地に行くしかない、連れて行くしかない。シンプルにそう考え、動いていたら、いつのまにか縁がつながり、今のスタイルが確立されていた。」と。
「おいしいってなんだ?」伝えたい体験価値は「自分で感じて、考え、自分で選び生きること」
彼女が企画する旅は、一般の参加者が「料理をつくる前段階」から参加できるものも多い。生産者の方の話を聞き、時には収穫をする。その後、参加者全員で調理し、「同じ釜の飯を」味わう、その一連の体験を分かち合う場を提供している。
例えば、とある旅は以下のような内容である。
旅先は海辺。まずは海の家と平飼い養鶏を営んでいる方の案内で、養鶏所を見学し、卵を収穫する。さらに鶏を絞め、解体まで体験する。その後、地元の農家が収穫したり、漁師が素潜りでとった食材がそろったら、彼女はビーチにある流木や石を使って焚火を起こし、焼き始める。目の前の海で汲んだ水で、じゃがいもをゆでるアイデアを思いつき、鶏はガラの出汁まで使用する。魚も野菜も水も火もすべてこの土地の恵み。その場でアイデアを膨らませながら、参加者全員の手で調理は進んでいく。
そして最後は生産者と参加者が同じ火を囲み食事をする。時間はいつのまにか夕暮れになり、海に夕日が沈む。それは参加者がこの土地に生きる生産者の日常を知ることでもあり、同時に生産者にとっては、自分の日常を外の視点で自覚する、それぞれの視点を交換する時間でもある。
「なぜそのような旅を提供しているのか?」と聞いてみると、面白い答えが返ってきた。彼女は「自分のことは”教育者”だと思っている。」と即答してくれた。
彼女の思う教育とは、参加者が生き物としての五感を養い、感じたことを軸に「なんで?なんで?」を何事にも問い、自分で選び考え、生き抜く力をつけることだと言う。自身が口にした食べものについてあれば、収穫されている場所や製造過程を気にかけ、想像することかもしれない。SNSで見かけたニュースについてであれば、その事件が起きた背景や多角的な意見にアンテナを開くことであるだろう。目の前の人が発した言葉に対しての違和感であれば、なぜ自分がそう感じるのかを考えることかもしれない。
彼女は大量な情報が流れる不確実な世の中だからこそ、自身の判断で選び生き抜いてほしい、臨機応変に自分の軸で生きることに気づいてほしいと考えている。そして料理は参加者にそのヒントを得てもらう、行動変容を起こすきっかけのツールなのだという。
食べるという行為は基本的にすべての人が日々行っているものであり、そして人は誰しもおいしいものが好き、そう考えると「料理は体の中にまで入っていく素晴らしい学びの機会」と思ったと彼女は言う。「おいしそう!楽しそう!」を入り口にすることで、すでに地産地消や自分の感覚を磨くことに興味を持っている人に限らず、幅広い人が気軽に参加できる。そして「あぁ、おいしかった、心地よかったなぁ」という本能的な体感の後に、「おいしいってなんだ?」を問うことで、参加者は考え気づいていく。狙って選んだツールというより、料理がその目的に最適なツールであることに後から気づいた、と彼女は話してくれた。
「不便・ない」世界にある、「便利・ある」世界に生きる現代人にとっての気づき
今の彼女の活動のキーワードの一つに「縄文」がある。今やどんな場所でも木や石でキッチンをつくり、焚火を操る彼女だが、最初から焚火を使って料理をしていたわけではない。数年前、料理をする場所にオーブンがなく、「さてどうしよう?」となった際に、現地の方から「オーブンはないけど焚火はできる」という提案があり、初めて焚火で料理してみることにしたという。キッチンに「ある」ことが当然だったオーブンが、「ない」という偶然、それを臨機応変に即興でやってみた結果、温度設定ができず時間も計算できないことから、より今の状態を観察し、経験値と併せて自分で判断する体験になったという。
「火」を使うということは、人類の進化を語る上で外すことができない。彼女の旅は、その日、その場所にあるおいしい食材を取りに行き、そこにある道具などで工夫して、居合わせた人たちと火で調理し味わい、火を囲んで今をわかちあう。時に「なんで?」を自分の中で振り返りながら内省し、その気づきを共有し、初めましての人と人がつながっていく。体験を提供する中で、もしかすると狩猟採集生活を中心とした縄文時代もこんな生活だったのかもしれないと想像したのだという。
「不便・ない」世界に身を置く時、人はその状況を受け入れ、無理なく臨機応変に自然に創意工夫する。「不便・ない」からこそ、分断ではなく協力や共有・分け与えが発生し、人と人がつながる。そんな感覚を、「便利・ある」現代の日常生活でもみんなが持つことができれば、世界はもっと平和になるかもしれないと、彼女は考えている。
提供するのは、旅先での越境体験で得たものを日常で生かすヒント
彼女の考えは、単に自給自足生活を勧めたい、縄文時代が良かったということではない。実際「私も都会育ちで、電化製品も使っているからね」と軽やかに言う。あくまで「自分で感じて、考え、自分で選び生きること」、「協力して臨機応変に創意工夫すること」の気づきを得る機会として、この「不便・ない」世界への旅を提供している。その越境体験を「便利・ある」現代の日常に持ち帰ることが、参加者それぞれの人生に、何かしらの変化を与えればと願っている。
彼女が提供する体験は特定の人のためではなく、今を生きるすべての現代人がターゲットである。特化した自然の中のサバイバル体験などを押し出すのではなく、「おいしい」をキーワードにすることで、女性でも子供でも、そして日頃「食」への意識を高く持っていない人でも、参加できるハードルの低さがある。一方で体験の内容をみると、例えばただ地域の食材を食べて、地域の人と会話をして、何か地域と接点を持って終わるようなライトな体験でもない。参加者は「おいしい」というシンプルな喜びを目的に気軽に参加しながら、いつのまにか生きるための気づきを得て日常に帰る。そんな場を提供できていることが彼女の特徴と感じた。
最後に彼女にとっての旅と生きる指針について聞いた。自分にとって旅とは、「視野を広げてくれるもの」だと言う。あたりまえが崩れるきっかけであり、自分がどこに身を置いてどう生きるかを考えさせてくれる機会でもある。そして彼女は、直感を大切に動き、願い、考えなど思っていることはシンプルに口にし、自分で扉を開けに行くことを大切にしている。自分で感じて動いたことは実現すると信じて、彼女はこれからも料理を通じた旅を提供し続ける。
「線」の観察者の一言
旅行・観光分野に関わる人たちにとって、最近では「非日常」だけでなく「異日常」で考えることも増えつつあるかもしれない。それは日常生活にない絶景をみてのんびりリラックスすることから、ホームスティをするように誰かの暮らしにお邪魔させてもらうこと、手つかずの大自然の中でサバイバルすることなど、幅は広い。
土地やハードの特性などからコンテンツを考えることが一般的かもしれないが、どのような視点で、どのような深度の体験をしてもらいたいか、そこから提供する「越境」体験を考えることで「非日常・異日常」のバリエーションは増えるかもしれない。
今回の線の観察者:研究員 中尾 有希