連載 「線」と出会う旅への視点

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「線」と出会う旅への視点

人知が及ばない自然と共生し、未来へと強くしなやかに生きる島

旅行者の日常と非日常の間にある「線」に着目し、「旅」への捉え方や視点を考える企画。第3回で取り上げるのは、東京都にある火山の島、三宅島。2000年の噴火では全島民に避難指示が出され、その避難生活は4年半におよんだ。防災が注目される昨今、全島避難からの帰島開始より、まもなく20年を迎える三宅島で、島で暮らす人たちの今を聞いた。

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 現代社会において、日々発展するテクノロジーに囲まれた生活の中で、私たちは技術や予測に依存し、時に過信し、自然に対して傲慢になっているとすら感じることがある。一方で地震や豪雨などの天災は世界中で増えつつあり、また天変地異に限らず、変化が激しく不確実ともいえる時代、一人一人が自分の力で判断し、生き抜く力が求められているとも感じる。
 20世紀以降、約20年周期で4度の噴火を経験してきた三宅島。人間の技術や予測が及ばない自然と共に生きる世界に戻ってきた人たち、新たに移住してきた人はどう生きているのか。そして訪れる人たちは、何に気づくことができるのか。
Profile
三宅島(東京都三宅村)

東京都島しょ地域に属する、都心から南に約180kmのところにある直径約8kmの島。黒潮の影響を受けた海洋性気候が特徴的で、年間平均気温が18度前後と温暖で多雨。主な産業は観光や農業。特に豊かな自然環境を活かしたダイビング、釣りなどが人気。島内は神着・伊豆・伊ケ谷・阿古・坪田の5つの地区を中心に構成されている。火山活動が活発で、記録にあるだけで17回、特に1900年以降は40年、62年、83年、2000年の4回の噴火が記録されている。
 2000年6月下旬から始まった噴火では火山ガスの噴出が続き、同年9月1日全島避難が決定され、当時暮らしていた約3,845名の島民は全員島外に避難することとなった(一部の防災・生活維持関係要員を除く)。避難生活は約4年半に及び、2005年2月にようやく帰島が開始された。現在の人口は約2,210人(2024年12月現在)。

三宅島全体図(引用元:東京都三宅支庁管内概要から引用)

地球のエネルギーを感じ、火山と共に生きる島

三宅島と聞くと、「火山」のイメージが浮かぶ人も多いかもしれない。島自体を火山と捉えることができ、その大きさは海底まで含めると直径が25km、高さ1,200mほどになる。とある島の人は「自分たちは活火山の8合目に住んでいるようなものだ。」と言っていたのが印象的だった。島内では数々の火山活動によって形成された、ダイナミックな地形と様々な時代の噴火の形跡があり、溶岩や火山ガスなどにより荒野と化した大地が、森に再生するまでの一連の過程を見ることができる。その島の様子を見守るかのように、日本一の幹周りを持つ樹齢1000年のスダジイ「御焼の黄泉の椎」など、幾度の噴火を生き残ってきた巨樹たちもあちこちに存在している。
 三宅島は伊豆七島*が全て見える唯一の島であり、火を噴く島として古くは信仰の対象だったともいわれる。噴火や台風、独特の植生などから地球の息吹を感じ、命がただ存在するだけではなく、生かされていることを自覚しやすい島でもある。「火山は私たちにとって悪いことだけではない、恵みも与えてくれる存在」と話す人もいる通り、湧き水に温泉、漁場など自然の恵みへの感謝ゆえか、伊豆諸島の中でも神社の数は特に多い。
 三宅島の居住地区の特徴として中央の雄山を囲むように5つの地区があることが挙げられる。同じ伊豆諸島に属し、同程度の人口規模の神津島や新島が1つの地区に集中しているのとは対照的である。島の人によると、山の麓に自然と分散した説と、災害時のリスクを見据え意図的に分散させてきた説があるようだが、結果として島全体が適度な人口密度となり、太鼓や木遣りなどに象徴される異なる地域文化が近距離の中で複数存在している。
 2000年の噴火では、火山ガスの影響で全島民に避難指示が発令された。避難時に約3,800名だった人口は、帰島時には1,000名ほど減ったと推察されている。一方で、過去には最大で7,000名以上が住んでいた時期があり、行政機能や公共施設、地域活動の一部はその時をベースにできているという。災害を経て起きた急激な人口減に高齢化、さらに人が生活する地区が5つに分散していることもあり、どう維持していくかが課題になっている。
 
*伊豆七島とは、東京都島しょ地域に属する伊豆大島(大島)、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島の七島を指す

火山活動でできた特有の地形が島のあちこちに見られ、海中にも続いている。三宅島の人の信仰の対象になってきたものも。

2000年の噴火を体験し、島に戻ってきた人たちの今

2000年の噴火を経て島に戻ってきた人たちは、火山とともにまた暮らすことをどのように思っているのだろうか。
 自然の多い島に共通することかもしれないが、島の人は天気予報だけに頼らず、自らの感覚で風の向きや海の状態を読み解き生活をしている。船が欠航になると島の物資が不足する、予定通り出かけられないことなどもあるが、それも自然の中で生きるということ。「毎日、大自然のエネルギーを浴びると、自分の悩みなどちっぽけだと、何かに抗うなんてやめようと思う。それがこの島の魅力。」そんな風に話してくださる人もいた。
 島に戻ってきた人の中には2000年の噴火だけでなく、1983年の噴火も経験している人も多く、中には1962年や1940年の記憶がある人たちもいる。実は2000年も1983年も1962年も、日頃の備えがあってか噴火による犠牲者は一人も出ていない。加えて海も山もある三宅島は、台風などにより被害が出ることも珍しくなく、その度に災害から復興してきた経験がある。それゆえに「もしも、、、」という意識が常にあり、防災への心がまえや備えは当たり前、日頃から不測の事態のパターンを考えているという人もいた。その上で「どうなってもなんとかなる、なんとかできる。」という言葉が自然に多くの人の口から聞かれた。
 ただ、そのような島の人からしても、2000年の噴火は、それ以前の噴火や台風などの被害とは異なっていた。島全体が被害を受け、全島民が4年半におよぶ避難生活を強いられるという前例のない事態は、大きな損害を被った反面、島の人々の関係性にプラスの影響も与えていた。
 2000年の噴火前は、島民は地区ごとの生活が中心で、他の集落の人の顔は知っていても、交流は少なく、時にライバル関係でもあったという。また噴火の影響も一部の地区に限定的に起きていたため、被害をあまり受けていない地区は“対岸の火事”というような節があった。しかし、2000年の噴火は全島民が避難し、帰島後も島全体を皆で復興させる必要があり、5つの地区が自然と一つになったという。
 特に小学生から高校生までの子供たちの多くは、避難先となった東京都あきる野市の全寮制の学校で共同生活を送ることとなり、学年を超えて大兄弟のように暮らしていたという。「マスコミに“かわいそうな子供たち”として追いかけられることや、プライベート空間もなく時間も制約され、家族とも離れ離れの生活でつらいことも多かったけど、楽しいこともたくさんあったし、その避難生活によって地区を超えて、近い世代の人たちと仲良くなれた。それは帰島後にもつながっている。」と話す30代~40代の島民たち。災害という苦難が結果としてバラバラだった島民同士の絆を深めたともいえる。また全島民が島を出た経験は、人々を社交的に、オープンにさせ、移住者への対応も帰島以降、変わったと話す人もいた。
 このような変化は、祭りなどにも現れている。以前は地区の人だけが関わるのが基本だった祭りだが、近年は人手が足りないこともあり、他地区の住民や移住者、来訪者にも門戸が開かれるようになっている。浴衣は地区ごとに異なる柄が用いられてきたが、近年、様々な浴衣の人たちが混ざり合い共に神輿を担ぐ光景は、互いに理解を深めつながりながら、皆で守る新しい祭りの形のように思えた、と祭りに関わる人は話してくれた。
 大きな自然の力に日常的に触れ、深刻な災害を何度も経験しているからこそ、彼らは人間の技術が万能ではないこと理解しながら、人の力でやり直せることも知っている。その姿には、都会にない気持ちの強さと前向きさを感じた。

溶岩流で埋没した学校跡や、大量の泥流に飲み込まれた社殿と鳥居など、過去の噴火の凄まじさを感じる場所が島の中に点在する。

2000年の噴火の現場へ、火山体験入山で触れられる学び

このような三宅島の火山の歴史や地理的特徴、そして島で今生きる人々の防災意識に触れられる「雄山火山体験入山775」という体験が、去年から提供されている。
 この体験では2000年の火山活動の中心であった雄山に、事前学習の上、島で暮らすガイドと共に山頂近くまで入山する。噴火前は木が生い茂り景色は見えなかったという登山道だが、今は見晴らしが良く、麓の集落や、その先の海までが一望でき、過去の火山活動によって形成された地形や、気象庁や研究機関などによる観測機器や、有事の際の退避小屋などについて、説明を受けながら登っていく。
 道中に見られる植生は、ススキを中心に背の低い植物が多く、遠くにはまだ枯れ木がちらほら見えていたが、着実に森が回復していく過程にあり、植生遷移と呼ばれる回復の段階によって植生が変わる現象が見られる貴重な場でもある。以前は常緑樹が多い森だったため、季節で色が変化することはなかったというが、この日はあたり一面黄金色だった。「私たちが最初に調査に入った数年前ともすでに違う。1年後、5年後、変化する森、来るたびに変化し、回復を感じられる場所ですよ。」とガイドしていただきながら、最後は2000年にできたカルデラにたどり着く。
 2000年の噴火が起きる以前、三宅島の中心に位置する雄山の標高は815mで、山頂付近には雄山サウナと呼ばれる噴気孔や、希少な花や植物が生育する八丁平と呼ばれる湿地があった。島の人にとっては遠足や週末のハイキングに出かける憩いの場で、その光景を記憶している人も多い。それが2000年の噴火による陥没で、大きなカルデラが生まれ、火山ガスによって枯れた大地となった。今の雄山の標高は775mと40m下がっている。前の姿を知らない筆者だが、むき出しのカルデラを目の前に、いかに大きな自然のエネルギーがこの地で放出されたか強く想像できた。

自然の営みが生み出す景色に加え、この体験のもう一つのポイントは多様なガイドにある。ガイドは島出身者もいれば、噴火後の移住者もいる。本職のネイチャーガイドもいれば、農家、宿泊業など、さまざまな背景を持つガイドがおり、自然や地理的特徴を説明するだけでなく、ガイド自身の噴火当時の体験、防災の教訓、移住者として感じることなど、様々なエピソードを交えながら三宅島の今に触れられる内容となっている。
 移住者で2000年の噴火の前後を知るガイドは「今までのあたりまえが、ある日なくなることがある。でも生きていればなるようになる。やり直せることを知っている。そんな風に生きている島の人たちはとても強い。災害とは切っても切れない世界の中で、自然とともに防災しながら生き抜く意識が強い。どうなっても前向きに覚悟を決められる人たちに魅せられて、この島と共に生きることを決めた」と話してくれた。
 また別の農業を生業とするガイドは、三宅島に来てから、何事にも境をつくらないようになったという。変わりやすい島の気候の中で農業をしていると、天気や季節でその日の仕事が変わることもある。また人が少ないため、地域の中での役割、手伝いなど、一人何役もやる。そのため、働く時間、自分の仕事、あらゆることに対して自然に柔軟になったという。彼は三宅島の天気や自然をいつも観察している自分だからこそ、伝えられることをやってみようとガイドを始めた。
 来訪者にとっては、これまで経験したことのない体験であることはもちろん、当時を知る島民や子供たちが2000年以前との変化に触れる場でもある三宅島ならではの体験。天災が増えつつある今の時代に、自然のエネルギーを目の当たりにすること、備え強く生きる精神に触れ、自分自身の防災意識を見直すことができる貴重な機会といえる。

カルデラの大きさは直径1.6km、深さ約500m。反対側を見ると、海に浮かぶ新島が見えた。

不確実な未来を、しなやかに生き抜くために必要なこと

島の人たちにお話を聞かせていただく中で、印象的だったのが「火山があるのに住んで大丈夫?」と言われることがあるが、都会の方がよっぽど怖いという意見が多かったことだ。どこにいても死ぬときは死ぬ、事故も災害もどこでもある。三宅島で起きる可能性のある災害は、台風・噴火・津波などある程度絞り込めて備えられる。みんなの意識が高く、顔が見えるつながりがある島に比べ、隣近所もわからない、どんな事件に巻き込まれるかわからない都会の方がむしろ危ないと感じるという。
 今回案内人を務めてくださった、島出身で三宅島の自然や文化など様々な体験を提供する、三宅島地域体験工房しまのねの代表でもあり、雄山火山体験入山775のガイドでもある平野さんは言う。「島では自助が基本、次に周囲の人たちとの共助、そして最後に公助を求める。でも都市部では、地域のつながりも希薄で十分に備えていない中、自力で無理だとすぐに公助に頼る人が多いと聞く。人とのつながりも含め、日頃から自分で自分のことは守る、備える、責任を持つ、立ち直るのが島の人の生きる基本。こういった島のたくましさとしなやかさを、不確実な時代を生きる子供たち世代に伝えていきたい。そして自然の中で本質的に生きる力を磨き、人とのつながりを大切にする心豊かな暮らしが未来まで続いてほしいと思い、事業を始めた。この三宅島というフィールドだからこそ得られる体験で、生きる力を磨くということを島外の人にも感じてほしい。」と。話を聞きながら、あらゆる場面に備え責任を持ち生き抜くこと、これはすべての人の人生に必要な基礎のように思えた。

世界的な気候変動の影響か、三宅島の海の様子も変わってきており、獲れる魚の種類が変わり、冬にはクジラを目撃することが増えているという。どう環境が変化しても、三宅島の人たちはたくましくしなやかに生きていくだろうと思うとともに、都会に住む私たちに「不確実な未来を、生き抜く覚悟はあるか?」と問われているような気がした。

 
※掲載写真はすべて筆者撮影

「線」の観察者の一言

筆者自身は、阪神・淡路大震災(1995年M7.3)を神戸市内の自宅で、鳥取県西部地震(2000年 M7.3)を震源からほど近い大山(1729m)の登山中、9合目付近で経験している。どちらも自然のエネルギーの凄まじさを知り、人生は不確実な今の連続で、生き抜くものだと感じた強烈な出来事である。
 一般的に自然豊かな土地を旅先に選んだ場合、多くの人が自然を楽しむことを目的にするだろう。しかしそこに暮らす人たちの生き方に視点を置いたとき、単なる旅の楽しさとは違う何かが見えてくるかもしれない。旅の深め方は多様で、同じ場所を旅しても違う経験になる可能性は無数にあり、それ自体一人一人が自分の力で判断し、選び生き抜くことと同じといえるかもしれない。

今回の線の観察者:研究員 中尾 有希